令和7年(2025)6月29日(日) 佐呂間町知来
佐呂間町の知来小学校跡に開拓記念碑が二つあった。
【開基100年開校95周年記念】
石碑の正面に「温故知新」、「佐呂間町長堀次郎書」及び縦書きで上記のとおり刻まれるとともに、知来小学校校歌が刻まれていた。裏面の碑文には、サロマ川沿いの地図と住民の氏名が刻まれていた。縦書きの碑文には次のとおり刻まれていた。「碑文 流動激変の二十年間を経てここに知来開基百年小学校開校九十五周年の輝かしい節目を迎えるに至った。この間地域においては九十戸、三百九十一名の住民が七十五戸、二百五十七名に激減する中二度にわたる水害に見舞われ、また、国鉄涌網線廃止、農協支所廃止、郵便局廃局等少子化離農による地域の過疎化に耐え忍んできた一方、地域振興の思いは強く、公民館建設、知来八幡宮拝殿建設、サロマベツ川河川工事等知来の発展を願う郷土愛も益々高揚した。知来小学校も開校以来およそ千四百名の卒業生を数えて各地で活躍中である。また後者屋根、外壁塗装、トイレの水洗化、花壇整備等施設整備の充実に尽くした。さらに教育実践校として教育振興に寄与してきた。ここに二十一世紀への架け橋として諸先輩の御努力に敬意を表し、先人の偉業を受け継ぎ、温故知新、愛郷の限り無き進展と繁栄を祈念し、この記念石碑を建立する。 平成十一年十一月十三日 碑文作 鈴木武幸」
もう一つ開基80年記念碑があった。
【開拓記念碑】
上記のとおり刻まれ、「佐呂間町長 船木長一郎書」と添えられ、その下に「先人の偉業を讃えて 知来部落開基80年 知来小学校開校75年 記念事業協賛会 昭和55年5月建立」とその下に刻まれていた。
裏面には次のとおり碑文が刻まれていた。「知来の開拓は、明治三十四年のサロマベツ原野殖民地区画割がなされた翌三十五年、泰泉寺広馬氏が十四号~十六号間十二戸分の無償払下げを受け、開墾に着手したのが部落開拓の初まりとされている。明治三十六年より入地者相次ぎ、明治四十年にはすでに部落組織もでき、初代組長に小野常次氏が選出され、同時に部落名を智来と定めた。知来小学校の開校は、開拓者二十余戸を数えるに及び、学令児童に対する教育の必要から、組長率先し部落民と協議し、八線十七号に常呂村沙留間第一教授所として開設したのが明治四十一年一月三十一日である。開拓者の日常は困苦欠乏に耐え度重なる水害冷害に悩まされ苦難の連続であり、爾来幾星霜数多くの先人の努力が現在の知来の発展を見るに至ったのである。よって先人の不撓不屈の開拓開校の精神を顕彰するため部落開基八十年開校七十五年を記念し記念碑を建立す。」






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