平成27年(2015)3月1日(日) 約12.7km 約1時間46分 手稲駅~(国道5号線)~銭函~(下手稲通)~ほしみ駅
今日も寒風にめげず、そして、風邪気味にもかかわらず走りに行く。4月下旬に駒ケ岳周囲一周ウルトラマラソン(65km)にエントリーしてしまったので、今から練習を積み重ねないと完走できないのだ。
バスに乗り、手稲駅まで。ここから銭函まで走る。
稲穂2条6丁目で「夫婦松」を発見。 説明版によると、昭和60年(1985年)5月24日に札幌市の保存樹木に指定されたアカマツとクロマツ。これらの推定樹齢は130年ほどで、明治17年(1884年)に広島県から当地に入植した池田家の始祖、池田秋三郎が入植記念として植えたものだそうな。
次に星置神社を高台に見つける。境内にお大師様のお堂もある。
由緒によると、明治17年の広島県佐伯郡16戸の入植に始まり、山口県、富山県及び青森県からの移住により村落を形成。当時この地は大木が生い茂り草深い未開の厳寒地であり開墾の仕事は正に苦闘の連続であった。移住者たちは、苦楽を分かち合う心の拠り所として、明治20年頃、星置1503番地(現在の星置1条7丁目18)に小詞を建立し、郷里より捧持した御祭神を奉斎し、村落の安泰と発展を祈願した。明治45年に現在地(星置南1丁目8-1)を得、星置開村30年にあたる大正2年9月に開村記念碑と共に軟石造りの小社を建立し、神霊を移遷して祭事を年々行ってきたとのこと。
境内には、「むすびの銀杏」があり、縁結びや子授かりの後利益があるとのこと。高台の境内からは、手稲の住宅地や海がきれいに見える。
次に小樽市方面に向かうと「御膳水宮」である。ここはいつも車では通り過ぎてしまうので、こうしたランニングの機会でもないと訪問することはない。説明版によると、
明治14年8月、明治天皇の北海道行幸にあたり、小樽港に御召艦を迎え小樽手宮桟橋に御上陸し、手宮駅から御召列車で札幌に向かわれた途中、「煤田開採係出張所」(現:小樽市見晴町285番地)にて、御小憩された折り、当地の沢水を御飲料になりました。これを記念して、当地域を「御膳水地」として記念碑を設立し、今日に至っていますとのこと。
となりの石碑には句が記されている。「車組むや 一滴の油 地にひらく」(長谷部虎杖子)。
そして、いよいよ今日の目的地「銭函」に到着。市街地に入ってすぐ、ツリーハウスを発見。線路の踏切を渡る前に、高台に神社を発見。変わった名前の神社である。「豊足神社」。ネットによると安永9年(1780年)の創始。古い。
安永9年(1780)9月10日松前の商人阿部屋伝次郎が福山城主の申し付けにより北海道を巡察し、後石狩川鮭漁並に近海鮭漁業を命じられ、銭函村以北の鎮守として豊受大神を勧請し漁場の鎮護大漁安全を祈願し、尊伝稲荷神社と称していたと伝えられる。明治4年再建され、明治8年村社に列格し、明治9年社名を豊足神社と改称し開拓使より御神鏡を下付された。大正5年4月現在地に移転を出願し翌6年竣工移転した。
そして、思いもかけず発見だったのが、忠魂碑の脇に機雷の残骸が展示されていたのである。こんなものはあまり見る機会がないので、おもわず感動。
由来によると、1907年(明治四十年)頃にオタネ浜(現在の大浜海水浴場)に漂流したいたものを故藤村音五郎氏が発見、軍の処理班が現地で爆破処理。機雷は日露戦争でロシアが日本海に敷設したもの。魚雷は銭函駅前<島判官仮本陣跡>の藤村家で長らく保管されていたものが、その家の移転に際して、この神社に奉納されている。
コメント