平成25年(2013)7月13日(土)15時頃出発(約1時間)
家畜改良センター新冠牧場~御園市街~田原交差点~静内農業高校~二十間道路
この連休は、自分が初めて働いた職場である新ひだか町静内の家畜改良センター新冠牧場(昔は、農林水産省新冠種畜牧場)を訪問する。当時の先輩・同僚がここの場長になったのを機に一度、訪問してみたいと思っていたが、実現した。
自分の就職が昭和63年であるから25年ぶり、4半世紀ぶりの訪問である。牧場の風景、合う人皆、懐かしすぎである。しかし、25年の年月は、国の出先機関から独立行政法人になり、職員も100人以上いたのが80人に減っているという。自分が担当していた、搾乳牛は、スタンチョンで100頭搾乳が、現在はフリーストール・ミルキングパーラーで250頭搾乳だという。隔世の感である。
そうこうしているうちに、夜の懇親会まで時間があるので、美味しいビールを飲むために走ることにする。手始めに龍雲閣の横を通る。ネットによると1909年(明治42)に御料牧場(現独立行政法人新冠牧場)の貴賓舎として建設され、皇族を始め多くの名士高官がご来場、ご滞在され。木造一部二階建て、延べ513平方メートルの優美な御殿造りの外観。内部には、龍雲閣の名付け親というべき、伊藤博邦公の揮毫額、狩野探幽の屏風、谷文晁の掛け軸、伊藤博文公揮毫額などを始め、皇族などの方々が使用なされた家具、馬具など国宝級の品々が所蔵されていて、 大正、昭和の二代に亘る天皇陛下が、それぞれ皇太子時代に行啓されているという、すごいところなのである。
さらに、そのとなりには、生駒神社があり、お参りすると、なんと、菊の御紋が貼ってあるのではないですか。職員の人に聞くと、管理が大変なので、静内の街の神社に合祀してくれとお願いしたら、北海道神宮の次くらいに格が高いので、断られたとのこと。
そのあと、御園の坂を下る。この坂も由来があるという。交差点に出て、街の方に下って走ると、昔、よく買い物に来ていたAコープも残っている。そこを右折して、日本軽種馬登録協会の牧場、静内農業高校のところを右折して、二十間道路を走る。一枚の畑が10ha、20haという広大な畑に、牧草、デントコーンが作付されている。直線約3kmを走り終えて、循環の走りを終えました。
(最後の写真は、次の日に訪問した事務所の内部の様子)
【龍雲閣】
建築内容
■建物の規格:木造一部二階建・屋根銅板葺
■建坪:378.84平方メートル・延坪:513.35平方メートル
■建築金額:4,939円17銭
■建築年次:明治41年
明治41年に客舎(貴賓舎)として建築に着手され、翌42年に竣工しました。
当時、当牧場(現在の新冠種畜牧場)は創業後既に36年、御料牧場となってから20年を経過しており、宮中御料馬の生産ならびに北海道産馬の改良の本務の他、日露戦役中、陸軍の要望に応えて軍馬の拠出をした当場にとって、皇族をはじめとして斯界の文武にわたる高位高官の士をお迎えする機会は多く、これら貴賓を招じ得るこの種の客舎の要望は極めて強かったがたまたま、翌年に韓国皇太子李艮殿下御臨場の予定されていた事が、この客舎の実現に拍車をかけた様です。こうした使用目的から、当然それに応じた格式が建物の各部各所で取入れられ、他の建造物とは全く趣きを異にした二層の御殿造りが出来上ったのです。これが当時の人々を如何に瞠目せしめたかは、当初「凌雲閣」(りょううんかく)と名付けられたことからも十分想像ができそうです。その後、数多くの名士高官が、ここに足跡を残されました。 特に二代にわたる天皇陛下が、それぞれ皇太子の御時に行啓されております事は、御料牧場とは申せ都から遠く離れた牧場としては稀な事と言えるでしょう。
昭和47年に新冠種畜牧場起業百年事業の一環として老朽化して龍雲閣の修復工事が行われました。工事にあたり内外とも、できる限り64年昔を復元致しましたが、屋根については当時の楢柾葺に復する事ができないことと今後の耐久性から銅板葺となりました。又、今後の龍雲閣は記念館的な性格を持つ事から、階下のうち4室は本来畳敷きであったものを板張りとして、龍雲閣にまつわる、あるいは皇室にまつわるゆかりの品々を陳列してあります。骨組には現在ではなかなか見る事のできない逸材を惜し気なく使っており又、それらの組み方も一種独特の方法が用いられています。
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