平成25年(2013)5月12日(日) 第41回水仙まつりロードレース大会(一般男子40歳以上の部)
記録:一般男子40歳以上の部 第10位
0~5.0km 22:00
5.0~10.0km 22:30(累計44.30)
【参考:昨年】 第6位
0~2.5km 11:01
2.5~5.0km 10:57 (累計21:58)
5.0~7.5km 10:33 (累計32:32)
7.5~10km 10:37 (累計43:09)
昨年に引き続き、2回目の参加である。今年も例によって、練習はイマイチ、また、金土と暴飲暴食をしてしまったので、体が重く非常に心配であったが。なんとかなるだろうと思い参加。
今年は、昨年と違い、天候が寒く、桜も咲いていないし、水仙も満開ではない。しかし、走る分には全然問題ない。また昨年同様、スタート前に公園内を散策。丹羽地区の開祖丹羽五郎氏について勉強済であったので、白虎隊の碑や三十三観音など歴史の碑が非常に興味深い。今度、暇なときにアップしよう。
さて、大会である。昨年より人が多いように感じるが、長万部の東京理科大の学生がいるからか。スタートするとやはり最初は、皆猛ダッシュである。やはり体が重い。すぐに上り坂に差し掛かり、昨年レースに勝った人達に追い抜かれる。また、レースが始まると天気が良くなり暑くなってきた。それでも、なんとかペースを保ちつつ走る。途中、コースに立っている役場の同僚に写真を撮ってもらう。折り返して、後半は、高校生らしき若者とデッドヒート。最後のゴールではその若者に負けました。
終わってみると、昨年よりもタイムは約1分30秒遅れ、一般男子40代以上の部で4位落として10位でした。ちょっと不満なのは、昨年6位で表彰式が3位までだったのに、今年は6位まで表彰されていた。
まあ、大人だから、許そう。レース後は、職場の花見で、バカ貝、ホッケ、豚肉、アスパラ・・・とバーベキューを満喫しました。
【三十三観音】
明治十年三月、東京高輪警察署詰であった丹羽五郎は、警視庁巡査数百名と共に西南戦役に出征した。参軍山縣有朋自ら命名した「警視抜刀隊」の百名は、警視隊三隊三百名から特に厳選された会津藩士族の多い精鋭隊であった。また、田原坂の戦いは日本国内戦史でも例を見ないほどに凄惨で、田原坂の丘は文字通り屍山血河の修羅場と化すほどであった。この戦いで丹羽五郎の率いる本体百名のうち三十三名が戦死、五十名が負傷するといった多くの犠牲を余儀なくされた。丹羽五郎は、西南戦役で戦死した部下の忠魂を慰籍せんと欲し、三十三観音にちなみ部下の名を刻し、後世の守護を希って、大正三年丹羽村創立三十五年祭記念事業として三十三位の墓標を建立(以下略)。
【会津白虎隊玉川遥拝所(漢文)】
白虎隊 少年団結白虎隊国歩艱難戊堡塞大軍突如風雨来殺気惨憺白日晦?鼓喧?震百雷巨砲連発?屍堆殊死突陣怒髪立縦横奮撃一面開時不利合戦且退身?疱瘡口含薬腹背皆敵将何行杖剣間行挙丘岳南望鶴城砲煙?痛?飲涙且彷徨宋社亡?我事?十有九人屠腹儘俯仰此百有余年?之文之世間伝忠烈??如前日?倒田横摩下賢
先人達が心のよりどころとして大切に継がれて来たものである。戊辰戦争の重圧をしっかりと心府におさめ津軽の海を渡り腰を据え鍬を振るい遥かに故郷を望みつつ百年が過ぎた。偲ぶ(判読不能)北海の地に生きぬき豊かな田園を尽ることなく見守り育ててくれた親心を偲びつつ 平成五年七月吉日 建立者一同
【会津白虎隊殉難の碑玉川遥拝所(説明板)】
戊辰戦争の慶應四年八月二十三日、深い霧の中を戸ノ原の戦いに敗れた士中白虎二番隊の少年二十名は疲労と空腹にさいなまれつつ全身水びたしで、戸ノ口堰から洞門をくぐり抜けて飯森山にたどりついた。彼等は、戻るべき城下をのぞんで「あっ」と声をあげた。城下町は一面の黒煙につつまれ、赤い炎が随所で噴きあがっていた。鶴ヶ城はその黒煙と炎の中にあり天守閣もいまに燃え落ちるかに見えた。そこで一同期せずにして「君公のいます鶴ヶ城はすでに猛火につつまれ、われわれの進むべき道も敵に犯されている扼されているわれわれの務めはもはやこれまでである。一同潔く自刃して同僚の士と黄泉において再会しよう」と山腹に整列し、遥かに鶴ヶ城に向かって訣別の礼をなし銃をすて、刀を抜き、互いに差し違え、あるいは腹を切り咽喉を突いて、つきつき生命を絶った。これは、自刃した二十名の隊士中、ただ一人屍の中に微かに体温の存するを発見され、奇蹟的に蘇生した飯沼貞吉の懐古である。会津藩士であった丹羽五郎は、この十九名の霊を郷里会津若松にあるが如く、祖先を祀る意もあってこの地に遥拝所を建立したものである。(佐藤信人誌)
【丹羽五郎頌徳碑】
丹羽五郎頌徳碑 正三位勲一等功正級子爵松平保男閣下題額 丹羽村ハ利別川上流三里の北岸二位シ丹羽五郎翁ノ創建二係ル??二里面積二千二百余町地味肥沃二シテ住民三百戸二千余人福島ヲ最トス一戸平均七町風俗敦厚二隣保親睦而シテ農事改良ノ策託兒尚歯ノ法悉ク溝ハリ市街整斉シ学校病院警官駐在所各産業組合アリ米作二論無ク牧畜養蚕果実植林二富ミ模範村ノ名夙二ハル路傍二桜松ヲ樹ウ玉川八景浮砂溜池弥?街道熊見襷荷卸松等懐?的名称多シ玉川神社ハ愛剣ヲ神體トシ小金山二祭ル山名ハ記念トシテ小野田金原ノ頭字ヲ取ル聖影奉安所忠魂碑白虎隊遥拝所佳城等アリ眺望絶佳也其麓ヲ晩翠公園トス郵便電信局時計臺ヲ設ク寺を能教ト曰ク翁會祖ノ名ヲ用二仰モ翁ハ坂上?田麿ノ後裔旧会津藩老ノ家ヲ継キ文武二通ズ戊辰又西南ノ役二従軍ス陸軍少尉警視正八位勲六等タリ夙二北海道拓殖二志シ官暇著述シ又家計ヲ節シテ資金ヲ儲フ小野田元?金原明善其志二感シテ出資ス是二於テ官ヲ辞シ未開地七百万坪?貸付ヲ得曾祖ノ開キシ会津磐梯山下南土田ヨリ十二戸四十九人及丹羽弥介大関栄作ヲ伴ヒ明治廿五年三月廿一日来住ス此地清冽ナル目名川アリ因テ玉川里丹羽村ト名ス爾来千辛万苦或ハ猛熊ヲ?シ或ハ洪水ヲ疏シ耕作十年民ヲ増シ田ヲ開ク道庁長官其他椎?鮮??ス北京視察ヲ名セラン藍綬褒章ヲ賜フ翁資性剛毅堅忍二シテ徳望アリ昭和三年九月六日卒ス寿七十七?村痛惜ス大関小学校長翁ノ遺志ヲ継ケ之ヲ管理ス翁六男四女アリ男ギ大学二入ラシム嘗テ嫡孫ノ殤スルヤ玉川校其他二巨額ノ金ヲ寄附シ財団法人丹羽部落二百年貯金ヲ行ヒ本村功労者ヲ表彰ス本邦生祠研究家加藤博士ハ翁二生祠トス西檜山支庁長又博士ノ七絶ヲ以テ銘二代フ
国家離散シテ君恩ヲ憶フ 明時二逢著シテ?ヲ雪ガンコトヲ感ス 欽仰ス曾祖ノ志ヲ?成師 奮テ蝦北二投シ二新村ヲ建ツヲ 西忠義
田畝相連リテ望ミ窮ラス 王?ノ一体秋風ヲ送ル 関君ノ好意曾識ノ如ク 今昔ハ深シ故翁ヲ説ク 加藤玄智
昭和十六年龍次辛巳春三月建村五十週年記念ノ為メ
前帝室編修官補 従七位勲八等 佐藤?? 勲七等 大関栄作謹書
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