乙部町の史跡

古木

平成25年(2013)6月9日(日)10:30出発
乙部町民体育館~官軍上陸の地~姫川~乙部市街
9.9マイル(15.9km)2時間19分(時速6.9km)

 本日は走ってから仕事をしようと思い、買い物がてら近場の乙部に行ってみることに。構想としては、元和台の道の駅に車を停めて、国道を南下し、乙部市街から姫川を上流に登って、姫川集落から富岡の方に北上し、国道に出て帰るというコースを目論む。おそらく30km。
 ということで、乙部の元和台の道の駅に向かい30分ほど太気拳の稽古をしてから走り始める。この辺には神社もあり歴史もある。そして乙部市街に向かうが、乙部市街まで5kmもあり、道すがら何も見るものがないので、やめて車で市街に向かう。
 町民体育館に車を停めて走り始める。まずは、官軍上陸の地である。明治2年に千人もの軍人が上陸したのだから当時は大騒ぎであったろう。そして、乙部の八幡神社にお参りしてから姫川方面に向かう。しかし、当初は道道を行くのではなく、少し北側の細い道を走って貝子沢公園や姫川の水などを見ながら行こうと思ったのだが、その道に行けないで、30分くらいロスする。このロスで心が折れてしまった。ようやく貝子沢公園に着くが、遺跡に向かう木の階段が老朽化で登れないという。そして姫川方面に向かうが、木々が鬱蒼として熊が怖い。それでも鈴を鳴らしながら走ると姫川の田園地帯に向かう。ここで昨日20kmも走っていて疲れてきた。富岡周りでいくと相当時間がかかるし、今日は姫川集落でやめようと決め、道道の大きな道に出て市街に帰りました。今度、時間があるときに、当初構想の1周、緑桂公園も含めてチャレンジしよう。見市温泉に入って北檜山に帰りました。

【開田記念碑】
 自然石に上記のとおり刻まれ、その下の黒い石には次のとおり刻まれていた。「自然んの恵は人の力により拓かれ実を結ぶ 昭和十七年頃長尾久蔵氏??野本淳氏に元和高台かんがい水利の示唆を愛く 爾来氏はこれが実現に努め昭和二十七年九月地元諸有志を糾合乙部村長吉岡亀之助氏と相計り沿岸凶漁対策と併せ土地改良区補助事業として工を起こす事業は施工資金ともに困難を極むるも関係者自ら汗を流し又機械力を導入する等あらゆる努力はこれを克服しここに美田を完成す 造田十周年を記念しこの碑を建立す」

【大澗の崖の石】
 大澗の崖の「金」と印された石は、古くから海の安全と大漁の願いを込めて眺めていたものです。工事で失われる前に元和の歴史のしるしとして、ここに移転しました。平成十九年七月 元和有志一同

【桂の古木】
 文字が大分すれてみずらい。キーワードのみ転載。「乙部岳、樹齢600~700年、九郎岳の由来、九州平泉の戦い、義経、移植」

【静御前最後の地】
 ここ乙部町は義経伝説の地として知られ、その昔九郎判官義経が兄頼朝の軍勢に追われて乙部に隠れ住んでいた。静御前は義経誅殺の命が下るのを知り、心配のあまり義経の後をたどりえぞ地に渡り乙部に来た。しかし、義経はすでに川を登り九郎岳を越え奥地へ逃れたと聞かされ、再開できぬ無念に涙した。無理をし病に冒されていた静御前は、これ以上勧めぬからだと悟り悲しみ義経の名を呼びながら義経が通った川の淵に身を投じた。以来この川を姫川と呼んでいる。町内には伝説由来の地名として九郎岳、姫川、姫待峠、竹森などがある。乙部町

【箱館戦争官軍上陸の地】
 北海道夜明けの地~箱館戦争官軍上陸の地~ 明治二年四月九日未明、乙部沖に官軍の「甲鉄」「春日」など八隻の軍艦が集積し、にしん漁最盛期の前浜は、黒船の来襲を思わせる光景となっていた。
 箱館戦争は、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争の最終局面で、榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷共和国の成立を目指して蝦夷地を占領した戦いと、それを明治新政府の官軍が奪還した戦いを指します。
明治元年、軍艦「開陽丸」などで東京・品川沖を脱走した旧幕府軍は、十月二十日、鷲ノ木(森町)に上陸。箱館、松前、館城(厚沢部町)などを次々と陥落させ、十二月十五日、箱館・五稜郭において蝦夷共和国を成立させました。
 官軍は、翌年、兵力をたて直し青森に集結。千五百人の兵と「甲鉄」「春日」「朝陽」など軍艦八隻で、四月六日蝦夷地奪還に向け出航しました。途中、霧のため平館(青森県東津軽郡)に停泊後、松前、江差の沖を旧幕府軍に気付かれないよう通過。乙部沖には九日未明に到着し、上陸の状況をうかがったのであります。
 村民は、大挙して沖に現れた官軍の軍艦に対して、漁船を出して、旧幕府軍の情報を伝え、これが上陸開始の契機となり、津花の浜(当地)及び相泊(館浦)への千人を超える兵士が迅速に上陸できました。このように、乙部の村民が官軍に協力したことによって、その後の戦況における重要な役割を果たすことになったのです。
 官軍は、上陸後すぐに参謀本部を乙部に設置し、臨戦態勢を整え、翌日には軍艦から敵陸兵への艦砲射撃を加えるなどにより江差を奪還。更に、松前道や鶉山道(渡島中山峠)などから箱館へ進軍し、ついに五月十八日、榎本武揚をはじめ旧幕府軍千人を五稜郭から投降させ、箱館戦争が終結しました。
 ここ乙部は、官軍が上陸して蝦夷地を奪還したことにより、蝦夷地が北海道となり、本格的な開拓が始まる起点となりました。

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