訓子府町の開拓の史跡

産業遺産

令和6年(2024)5月25日(土) 訓子府町役場~道総研北見農業試験場~ホクレン訓子府実証牧場~北見市相内~西19号線を南下~黒田四郎翁顕彰碑~居武士地区の旌頌碑~水田発祥の地 34km 4時間35分

 吉方である北方の訓子府町を走ることに。以前訪問したことがある北見農試やホクレン牧場も走って再訪。訓子府市街の東側に史跡があるので、ランニングの後半に訪問するよう設定した。
 旧訓子府駅前には動輪が置かれている。走り始めると雨が降ってきた。天気予報は晴れだが外れている。そして寒い。ウインドブレーカを着て走る。道道143号線を北上し、北見農試への道に左折する。防疫上の理由から玄関から写真を撮り、さらに進む。きたみらい農協の施設を過ぎて右折するとホクレン実証農場である。ここから町道らしき道を東進するが、結構森の中の道であり熊が怖いがなんとか通り抜けることができた。道道143号線に戻って北見市相内に入る。史跡訪問だけならここまで来る必要はないのだが、長距離を稼がなければならず仕方ない。相内地区から西線19号線を南下する。白樺の防風林が綺麗だ。 

 西線19線を南下すると顕彰碑が見えてきた。戦時中に掘削したようだ。

【顕彰碑】
 表面「西十九号道路開さく工事 着工昭和18年5月 竣工昭和19年10月 功労者 太田栄吉殿 田中縫治殿 紺野倉蔵殿」、裏面「本開さく工事は戦時中労力きわめて不足のとき三翁責任のもと老人女(一部不明)二年を以て完成(不明)茲に永く先人の遺功を顕彰する 昭和36年柏丘農事実践会」

 常呂川のところの頭首工のところに碑が見えた。近付いてみると「黒田四郎翁彰功碑」である。裏面は逆光でよく読めない。ネットで調べると、開拓移民団の北光社のリーダーのようだ。

【黒田四郎翁彰功碑】(ネットから転載) 
 北光社は、1897(明治30)年、北海道北見訓子府(クンネップ)に新天地を開くため、訓子府を視察した坂本直寛(南海男)が中心となり、沢本楠弥、前田駒次、西原清東(さいばらせいとう)ら高知県の有志によって組織され、この地の向かい側にある高瀬屋(当時旅館)に開拓移住民の募集事務所を開設し、「土陽新聞」紙上で応募者を集めた。坂本直寛は龍馬の甥にあたり、自由民権運動の論客として活躍していたが、1885(明治18)年に片岡健吉らとともにプロテスタントの洗礼をうけた。「北光社移住規則」には、飲食・賭博の禁止や日曜日を休日とすることなど、キリスト教精神に基づくいくつかの条項がみえる。
移民団の第一陣となった112戸は、1897(明治30)年3月、この岸壁より船に乗り、須崎港で再編成した後、関門海峡を取って日本海に出て北上し、はるばる小樽港へと向かった。それから引き続き北進し、宗谷岬を迂回して網走港に入港し、ここから今の北見市へと、移住の第一歩をしるした。
北光社の北海道開拓は必ずしも順調なものとはいえず、3年間で221戸が入植する一方、逃亡も159戸に及び、1903年に残っていたのは62戸であった。1914(大正3)年、北光社が開拓した632町余の農場は黒田四郎の黒田農場に譲渡され、キリスト教の理想に燃えた北光社はその活動に幕をおろした。彼らが開拓の先鞭をつけた訓子府原野は現在の北見市にあたり、1986(昭和61)年北見市開基90周年を記念して、北見氏と高知市の間で姉妹都市締結の調印がなされた。 

 居武士小学校のところにも碑があった。

【旌頌碑】
 表面には上記のとおり刻まれ、「北海道庁長官 佐川信一書」と刻まれ、その下の基台には次のとおり刻まれていた。「開拓之祖 大谷清虎翁 明治30年5月 高知県高岡郡久礼町より移住 馬場庄吉氏 高知県吾川郡西分村より移住 大谷氏とともに開拓に尽瘁せり」。裏面には「昭和8年10月居武士部落一同建立」と刻まれていた。裏面には移転工事記があった。上記と重複しない情報を転載する。「北光社開拓団13戸のオロムシ地区入地が本町開拓の始まりである」

 この辺で25kmを超え疲れてきたが、最後の水田発祥の地を訪問する。普通の人家の前に小さな説明板があるだけであった。

【水田発祥の地】
 北見地方では、明治31年北光社の前田駒次によってはじめて米がつくられました。当町では、開拓者の長年の夢がかない、明治39年に川口栄之氏が試作したのが、最初とされています。よく獲れたので、その後3反歩ぐらいまで増田し、品種も北見支場で赤毛から分離育種した「北見赤毛」などをまいていました。1反当たり、3俵前後の収穫があったとされています。

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