平成24年(2012)1月9日(月) 8時半~11時頃 家~いたち川~横浜自然観察の森~大丸山(156m)~横浜栄高校脇~上郷のいたち川沿いの道~家
今日は、明日から本格的な仕事なので、軽めの近所周辺の散策。いたち川を遡り、夏には蛇が怖くて行けなかった川沿いのアメニティの小道を通って、上郷の自然観察の森へ。そこから天園ハイキングコースに出て、横浜市最高峰の大丸山。そこから円海山方面、港南台の清掃事務所の上、横浜栄高校の脇を通り、最後は上郷のもう一本のいたち川沿いを下って、家に戻りました。
今日もビブラムを履いたが、足首やアキレス腱が痛い。しかし、足の指で地面をつかむ感覚が出てくると楽になる。特に下りは通常のシューズよりも楽だ。最後は裸足で100kmが目標だが、ワラーチサンダルなども活用しながら、裸足感覚を鍛えていこう。
ビフォアアフターに出た焼き鳥の「とらや」が近所にあった。その後皇女神社があり、公田の縄文式土器の説明板を発見。
【皇女神社】
照玉姫は葛原親王の皇妃で、往昔親王に従って東国に下ったが天長元年9月28日(西紀824年)当地で死せられた。里人達は嘆き悲しみ、懇ろに葬り塚を造営した。此の塚を皇の御前塚又は、女臈塚と呼んで、永く姫の遺徳を慕っていた。文禄元年(1592年)2月、信永と云う僧侶が当地を訪れた際、姫の遺徳を知り、社を建立して其の御霊を勧譜したとされ、又当時姫の侍女であった相模の局、大和の局の2人が姫の死後尼となり塚守となっていたが、相ついで両名とも死去した。里人は、これを姫の塚の傍らに葬り両塚明神として崇めたと伝えられるが、現在両塚の所在はあきらがではない。
【栄区公田町出土の大型人両把手】
照玉姫は葛原親王の皇妃で、往昔親王に従って東国に下ったが天長元年9月28日(西紀824年)当地で死せられた。里人達は嘆き悲しみ、懇ろに葬り塚を造営した。此の塚を皇の御前塚又は、女臈塚と呼んで、永く姫の遺徳を慕っていた。文禄元年(1592年)2月、信永と云う僧侶が当地を訪れた際、姫の遺徳を知り、社を建立して其の御霊を勧譜したとされ、又当時姫の侍女であった相模の局、大和の局の2人が姫の死後尼となり塚守となっていたが、相ついで両名とも死去した。里人は、これを姫の塚の傍らに葬り両塚明神として崇めたと伝えられるが、現在両塚の所在はあきらがではない。
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