手稲区前田の碑

旅ラン

令和3年(2021)11月14日(日)

札幌市手稲区前田(自作農記念碑、東宮駐蹕記)
琴似~発寒の斜め通り~天狗橋~新川の河川敷~手稲区前田公園~手稲本町~国道5号線~西町~琴似
 8時頃出発 19.3km 2時間38分
 
 手稲区前田の前田公園の史跡まで走ることにする。
 家から琴似を通って、発寒の斜め通りをひたすら走る。この道は琴似発寒川に沿っている。新川に到達し左折すると天狗橋の碑があった。

【天狗橋の由来】
 明治42年に新琴似側に発寒特別教授所、つまり今でいえば小学校の分校が設けられて対岸の発寒からも生徒がきていたという。言わば通学橋の元祖といえる橋である。天狗橋の名が付いたのは、明治45年頃の新橋架橋の時であるといい、その名は工事請負の棟梁が鼻の高い人で天狗のあだなのあった琴似屯田兵堀内清四郎からきているという。
 「札幌地名考」より  平成三年三月吉日建立 札幌市

 新川の河川敷をしばらく走り、石狩手稲通を左折し、前田公園の手前の前田中央会館の敷地に自作農記念碑があった。

【自作農記念碑】
 碑面には大きく「自作農記念碑」と刻まれており、その脇に「北海道帝國大学總長高岡熊雄書」と添えられている。また、碑の右側面には「昭和十一年八月建設」と刻まれている。台座の正面には、「昭和七年」から「昭和十年」までの期間に計51名の氏名が刻まれた石板がはめ込まれ、台座の右側面には、「前田自作農創設五十年記念協賛 昭和五十九年十月」と題された黒御影石の石板に、「五十音順」に45名の氏名が刻まれたものがはめ込まれている。さらに台座の左側面には、「前田開基百年記念 前田農事組合関係者分」と題され、上段から「前田居住年度」、「分家年度」、「出身地」と分類され、その下に「初代」から「五代」までの氏名が刻まれた黒御影石の石板がはめ込まれ、「明治二十七年」から「昭和四十九年」までにこの地区に居を構えた31名の系図が示され、その出身地は北陸から東北の各県を中心に、遠くは愛知県や徳島県から入植したことがわかる。開拓初期にこの地域に広がっていた前田農場主であった前田利為の出身が加賀藩があったことから、北陸地方からの入植者が中心となっていたものと思われる。
  石碑の脇に立てられている説明板には、 「この碑は、昭和6年(1931年)から昭和10年(1935年)に、前田農場で働く小作の人たちが、土地を農場主から買い取り、51人全員が自作農となったことを記念して建てられたものです。 最初は新川中央橋近くにあった新川神社のそばに建てられましたが、昭和60年(1985年)8月30日に、現在地に移されました。」 と記されている

 その近くの前田公園に入ると、東宮駐蹕記の石碑があった。
 碑は上部三分の一の部分がひび割れており、セメントでつなぎ留められている。そのひび割れた上部の碑面には、「東宮駐蹕(ひつ)記」と読める篆額(てんがく)が浮き彫りにされている。この碑は「東宮駐輦(れん)記」碑と広く呼称されているが、「東宮駐蹕(ひつ)記」碑が正しい名称だそうだ。「駐蹕」も「駐輦」も同じ意味で、天子が行幸の途中で車を止めることをいう。篆額の下には石碑の謂われが刻まれているが、一部は風化して解読が難しくなっている。台座の正面には、「この石碑に記されている内容」として、次のような読み下しが記された金属板がはめ込まれている。
  「東宮駐輦記碑 〔この石碑に記されている内容〕 皇太子殿下ご滞在の記 明治44年秋8月、皇太子殿下は北海道に行幸されました。その折、25日石狩国軽川に来られ、前田家の農場をご視察されました。 これより先にも、皇太子殿下には前田家本郷の邸宅にも、しばしば臨幸されました。そして、今またこうしてこの地にもおいでいただきましたこと、まことにありがたく幸せなことです。 農場の諸君も、感激して恩に報いようと、仕事に打ち込み労働に服して、世の模範になろうとしています。やがて、農場も良い土地となり、収穫も多くなることでしょう。牧草が豊かになり家畜が繁殖すれば、酪農も盛んになります。 すなわちこれが国家にとって、根本を治め、物産を豊かにする行為です。諸君もまた、大いに力を尽くしたということができます。ですから、殿下のご意思と公のこれにお応えしようという誠意も大いに賛同を得たと言えるのではないでしょうか。 公は、近彰に文章を作成し、石碑に刻んで後世に伝えるように命じました。 そこで、謹んで歳月を誌し、あわせて一言を添えておきました。 侯爵前田利為が篆額を書き、永山近彰が敬って文章を作り、石川龍三が謹んで書きました。」

【碑の脇には説明板】
  前田農場「東宮駐れん記」碑 〈建立年 明治44年(1911年)8月、行啓後に建立 年月日不明〉 明治28年(1895年)に前田家15代当主利嗣(としつぐ)が軽川に大規模な農場を開きました。これを前田農場といいます。 明治44年(1911年)8月、前田農場を当時の東宮(後の大正天皇)が視察しました。この時、農場の庭園内に御便殿(ごべんでん)という休憩所が建てられました。その後、御便殿のとなりに、東宮が行啓(ぎょうけい)したことを記念した「東宮駐れん記」が建てられました。 その後、個人宅内で管理されていましたが、平成25年(2013年)にその敷地が売却されてしまったことから、手稲区郷土史研究会をはじめ、地域の方々の協力のもと、旧前田農場地内に当たる前田公園内に、この年10月復元移設されました。 昭和17年(1942年)字名設置により、この地域が前田と呼称される記念すべき石碑です。

 前田公園の中には赤レンガのサイロが残っていた。前田公園をあとにし、手稲本町を通って国道5号線に入り家まで走って帰る。

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