二中公園・山鼻公園柏・月寒神社

古木

平成28年(2016)3月20日(日) 約15.8km 2時間30分

 長男の大学入試の合格が判明し、晴れ晴れとした気分でランニングに出かける。
 今日は、札幌市中央区の歴史の散歩道というホームページで、北3条西18丁目の二中公園、山鼻公園を訪問後、月寒神社まで走ることにする。

【二中公園】(以下、転載)
 北3条西18丁目の札幌龍谷高等学校のテニスコートと道庁西18丁目別館に挟まれた二中公園は、北海道で五つ目の中学校として誕生した北海道庁立札幌第二中学校がこの地に立っていたことに由来する。
 大正2年に札幌第一中学から転校した二年生81人と新一年生95人を迎えスタートした第2中学校は、敷地面積33,000平方メートルほどの学校で、開園当時は学校の周りに桑畑、リンゴ園などのどかな田園風景が広がっていましたが、昭和に変わると周辺が宅地化され、市電も北5条を通り第2中学校裏まで走るようになりました。
 戦後、学制改革により、第2中学校は道立第2高等学校と改称され、さらに札幌西高等学校となり、電停の名前も西高前に変わりました。
 昭和35年の家事により校舎の大半が焼失。その結果、昭和37年に新しい宮の森の地に西高ができ、旧校舎跡地には西本願寺別院、道庁共済会館などが建ちました。そして敷地の一部が第2中学校の名をとった二中公園が完成。今も園内には当時の二中の歓声を聞いていた十数本の大木が静かにたたずんでいる。

【山鼻公園のお声がかりの柏】
 次に山鼻公園に向かう。ここには何回も通っているが、明治天皇が立ち寄って、木の名前を問うた柏の大木の幼木があるそうなので行ってみる。結果、どの木かわからなかったが、どれかだろう。(以下、転載)

 明治14年、天皇は東北・北海道を視察し9月1日に山鼻村においでになった。この日、天皇は真駒内牧場を視察した後、藻岩下真駒内間の仮橋を渡り、石山道路を山鼻にむかって進んでこられた。道の両側には、鍬を振って働く屯田兵たちがいました。
 天皇が山鼻小学校で休まれた時、屯田兵は自分たちが苦心して作った農作物や麻、網、繭、真綿、果物などをお見せしました。どれも立派で天皇はお褒めになったとか。
 この辺りは、学校と屯田兵の中隊本部を中心に練兵場が東西の屯田に大きくっ広がり、その一角に大きな柏の木がそびえていました。天皇はこの木を目を留められ、木の名前を問われたので、そばにいた人が柏の木であることをお伝えした。
 これを効いた山鼻の人たちはこの木を「お声がかりの柏」と呼び、大切にしてきました。しかし、すいて樹齢230年、幹の太さ60センチ、高さ18mの老木も根から幼木を残して枯れたため、昭和52年10月15日に切り倒されました。二世の幼木は、山鼻公園と山鼻小学校に移植され、今も開拓の歴史を伝えています。

 次に豊平川を渡り中の島へ。川を渡って碑を見つける。
 札幌市のホームページによると、昭和5年、河合才一郎氏が建築した料亭。地下鉄開通後、急速な街の発展により、昭和53年に姿を消した。跡地に建つマンションの東側には、私費を投じて幌平橋を架けた河合氏の偉業をたたえた幌平橋架設記念碑だという。

 

その後、平岸の「けん豆」という蕎麦屋で昼食後、月寒公園に向かう。
 月寒公園に初めて来たが、豊平川の河岸段丘の上部に位置するので、若干景色が良い。この公園は、明治の終わりに「千城台」と名付けられ、歩兵第25連隊の小演習場として使われていたそうだ。明治38年、豊平村に移管され、住民奉仕で整備された。戦後、旧陸軍射撃用地も加わり、公園になったそうだ。

 月寒神社にお参りする。この地には南部藩から開拓のため移住した人が多かったようだが、神社の由来は、月寒、福住移住者が広島県厳島神社の市杵嶋姫命と農耕の倉稲魂命の2柱を月寒村西通7番地(現福住2条4丁目)に小さなほこらを設けたのが起源。大正7年、現在地に再度移転。

 公園内に石碑も多い。開拓の功労者の2名である。

 吉田善太郎氏は、明治4年に岩手県から入植した。厚別川から水を引くため、私費を投じて用水路(吉田用水)を開削するなど、月寒の発展に尽くした功績により大正9年に建立された。

 明治3年、来道した阿部与之助氏は、後に郷里から人々を呼び農地の開墾、山林の育成など地域の発展に大きく寄与した。また、行政、教育などの諸施設の建設に貢献した。功績を記念して大正9年に碑が建立された。

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