令和3年(2021)11月7日(日) | ||||||
留萌道の駅~留萌市飲み屋街~留萌神社~千望台~黄金岬~道の駅 8:30時スタート 10.5km 1時間37分 北方が吉方の最終日、留萌市まで遠征することにする。留萌には史跡が少ないが、今日の一番の目的地は千望台だ。天気予報は朝方雨だが、着いたときは曇りであった。 道の駅に車を停めて走り出す。走り出してすぐに留萌本線の増毛方面への鉄路がまだ残っていた。国道を渡ると留萌市の飲み屋街。景気が悪く厳しそうだ。泊って飲んであげたいが、札幌からだと近すぎる。 坂を登ると留萌神社に到着した。天明6年の創祀というから古い。 【留萌神社の由緒】北海道神社庁のホームページから 天明6年(1786)当地支配人栖原彦右衛門が、当市58番地に広島県安芸の厳島神社の御分霊を奉斎したのが創祀と伝わる。万延元年(1860)留萌郡は床内藩の領地となり、明治3年山口藩の支配地となったが、営繕・祭祀の諸費は一切藩費をもって支弁されていたと伝えられている。明治9年、村社厳島神社と公称し、明治29年郷社となる。初めの境内は海岸に近く、その上低地であったので、海が荒れたり留萌川が氾濫出水の際は社内に浸水があったため、明治31年当市留萌通りに遷座。同39年には神饌幣帛料供進神社に指定された。大正14年に現境内に遷座し、昭和15年県社となり、現社名に変更した。 留萌神社から住宅街を通って高度を上げ、森の中を過ぎると千望台だった。曇りで日照が少なく残念だが、留萌市街や日本海が一望できる。展望台には留萌市の功労者「五十嵐億太郎翁」の銅像が聳えていた。そしてその裏側には功績が刻まれていた。 【留萌市特別功労者五十嵐億太郎翁の功績】 五十嵐億太郎翁は、留萌をして今日あらしめた大先覚者である。翁は明治三十九年九月若干二十八歳にして留萌築港鉄道期成同盟会長に就任し、それ以来関係有志とともに長期にわたる運動を続けた結果その愛郷の至誠が報われ、留萌深川間の鉄道は明治四十三年十一月に開通し、留萌築港は国会を通過し、巨額の国費と二十四カ年の歳月を費やして昭和八年三月輝く竣工を遂げたのであるが、翁は留萌港の将来の発展はその背面地域の開発と近代的な港湾荷役施設の建設にあることを痛感し、その目的のため単身上京して幾多の障害を克服し、これにより留萌鉄道が敷設され、更に留萌港頭には一大偉観を誇る荷役施設が完備されるに至った。それ以来留萌港は隆盛の一途をたどり今や北海道西北部における重要港湾として港勢いいよいよ伸長しつつあることは、翁が熱烈な愛郷の至誠に徹し、その生涯を郷土留萌の建設に捧げられた結果であり、その功績は極めて大きく、ここに留萌港を眼下に見る景勝の地千望台に翁の像を建立し、その徳を永久にたたえるものである。 昭和五十九年十月九日建立 留萌市特別功労者五十嵐億太郎翁立像建設期成会 千望台をあとにして留萌市街に下り、黄金岬に向かう。途中古い小さな建物があったが留萌市役所だった。岬に近づくに連れ雨が降ってきた。黄金岬に到着。雨もひどくなり、波も高く岬を早々に後にして、道の駅に帰る。到着する頃にはびしょ濡れになり、身体がすっかり冷えてしまった。 |
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