新庄藩主戸沢家墓所

古い建物

令和6年(2024)7月4日(木) 約10.5km 1時間47分 新庄駅前の宿~山の神神社ブナ林~水魂碑~新庄藩主戸沢家墓所~正一位出世稲荷~雪国救済運動発祥地史跡~戸沢神社・新庄城~藩校明倫堂跡~明治天皇御駐在址~芭蕉句碑

 田園地帯を北の方に走り、西の方の細い道を走り、瑞雲院というお寺のところが新庄藩戸沢家墓所であった。墓石があるだけかと思ったが、かやぶき屋根の小屋があり、そこに歴代藩主の妻や家族なども一緒に祀られているという。市のホームページから概要を転載する。

新庄藩主戸沢家墓所(国指定史跡) - 新庄市

【新庄藩主戸沢家墓所】
 新庄藩主戸沢家墓所は、江戸時代最上地方一円を治めた戸沢家歴代の墓所です。
戸沢家は、応永31年(1424年)13代家盛の代に秋田県角館城に居を構え、戦国大名としての地位を築いた。その8代後、新庄の藩祖となった政盛の代に常州(現茨城県)松岡4万石に国替えとなり、慶長7年(1602年)から元和8年(1622年)までの20年間を茨城県の小川町と高萩市で過ごした。元和8年(1622年)、またの国替えで、羽州最上郡と村山郡の一部6万石を賜り、新庄に入部してから廃藩置県まで、11代の藩主がここを治めた。
墓所は新庄市瑞雲院と桂嶽寺の2ヶ所にあるが、向陽山瑞雲院(曹洞宗)は、山形県白鷹町瑞龍院の末寺で、藩政時代寺領150石を有し、領内禅宗の事務を統括する禄所であった。初めは、城下町北の入ロの要として、羽州街道西側に建立されたが、元禄14年(1701年)全焼し、寺地を宝永3年(1706年)東側の現在地に移した。その際に、焼寺の西奥に墓石のみであったものを、現在の廟建築の形式に変えたものと思われる。ここには6棟の廟があり、2代正誠を除く10人の藩主が葬られている。
 香雲山桂嶽寺(臨済宗妙心寺派)は、寛永2年(1625年)初代藩主政盛が、太田村に長松山万年寺を建立したのがその前身で、貞享3年(1686年)西山に移し、幼くして亡くなった愛児政武の法名桂嶽寺殿にちなみ、香雲山桂嶽寺と改めたものである。
御廟所は、当地では御霊屋(おたまや)と呼ばれ、建立された順序は、瑞雲院1号棟(1704年から1721年推定)・桂嶽寺御廟所(1724年)・瑞雲院2号棟(1742年)・3号棟(1747年)・4号棟(1782年)・5号棟(1788年)・6号棟(1798年推定)の順になる。造りは、単層宝形(ほうぎょう)造りで、大きさはそれぞれ違うが、いずれも絵欅(けやき)造りで、石場の上に土台を据え、丸柱を建て、柱間に厚い板をはめこんで壁としている。入ロは観音開きの扉、床は石畳で板敷きはない。屋根は全て茅葺きであるが、桂嶽寺御廟所だけは近年木羽葺きに替えられた。
このさや堂の中には、歴代藩主とその正室(1基のみ側室)、家族の墓石が納まっている。その内訳を見ると、総数27基で、藩主11名・正室6名・側室1名・その他9名である。
その他9名のうち、4名が9代正胤の子どもたちであるのが注目される。また、被葬者の内、新庄で亡くなった方は11名で、江戸で亡くなった方は、三田の常林寺(江戸での菩提寺)で本葬し、瑞雲院に分骨(遺髪か)して葬ったものである。
 全国に多数ある近世大名の墓の中で、藩主とその正室や子ども、側室など一緒に葬られているのは極めて稀である。また、各歴代藩主の墓が一堂にあることから、1700年代の初期から後期に亘る約100年の間の建築様式の変化は、その時代時代の新庄藩政の姿を浮き彫りにするもので、歴史的に大変興味深い。

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