北栄ストーンサークル・御使記念碑・曽我開拓の歴史説明板

古墳・ストーンサークル

平成25年(2013)9月13日(金)11:15出発 ニセコ駅~北栄ストーンサークル~曽我神社~ニセコ駅(ニセコフットパス 自然と歴史の道の約半分)
約9.71km 約1時間25分
 今日は3連休の前なのと、土曜日の早朝に増毛山道の歩くイベントに行かなければならないため、お休みをいただき札幌に向かう。今日は天気がいいので、前から走ってみたかったニセコのフットパスを走ることに。本日は、ニセコ駅に車を停めて、道道66号線をアンヌプリスキー場方面に向かい、道道343号線に曲がり、北栄ストーンサークル、双子のさくらんぼの木、曽我神社というコースを設定する。
 ニセコ駅であるが欧州の雰囲気を醸し出す洒落た駅舎である。そして、駅前には秋らしくパンプキンを飾ってある。このオレンジのかぼちゃは街中に飾ってあり、町ぐるみで季節感を醸し出す演出をしている。さすが観光先進地だ。
 ニセコの黄色い橋をわたってアンヌプリ方面に向かう。上り坂で暑くなってつらいが、あっという間に道道343の交差点に着く。ここを右折すると洒落たペンションなどが目立ってきた。そして目指す北栄ストーンサークルにつく。ストーンサークルは、墓の説や祭祀場所説等いろいろあるが、個人的には何らかのエネルギーが集まるところで、古代の人はそれを敏感に感じていたのだと推測する。個人的見解だが、ここは羊蹄山とニセコアンヌプリ、昆布岳の山山頂を見渡せる絶好の位置にある。しかもネットによると羊蹄山の山頂と同緯度なのだそうだ。看板によると昭和26年の発掘調査で、土器、翡翠、人骨の一部と思われる骨片等が出土し3000年前の遺跡と推定されているとのこと。
 ストーンサークルを後にして、左にニセコアンヌプリを眺めながら走る。フットパスマップにある双子のさくらんぼの木は見つけられなかった。そして、曽我神社に向かう道に入ったのだが、砂利道になり、しかも人家がなくなり、鬱蒼とした林の中を走る。熊が出るのではないかと怖く、山菜ナイフをポケットに入れながら走る。しかし、ここはあっという間に終了し、曽我神社に着く。ここの神社は高台の森の中にあり、しかも綺麗にしている。
 曽我地域は、明治の開拓でここを開拓した曽我子爵の所以で、地名になっており、この神社には曽我子爵の絵が飾られているそうだ。このあと、東啓園・曽我森林公園に向かう。公園に自作農記念碑という石碑があったが、当初は小作方式で開拓をしたが、小作人たちが自作農になりたいと曽我子爵に陳情したら、曽我子爵は快くこれを許したという。ここの地名も当初は違う地名だったが、小作人たちは是非、「曽我」という地名にしてくれと懇願され、曽我子爵の人柄が伺わえれる。
 この公園で少し稽古したあと、ニセコ駅に戻り、綺羅の湯でヒトっプロ浴びて札幌に向かいました。

【曽我北栄環状列石】(説明板)
 この環状列石(ストーンサークル)は、ニセコ町曽我252番地に所在し、海抜320m、北にニセコアンヌプリ東に羊蹄山が一望できる勝景の地につくられている。この遺跡は昭和の初め、当時の土地所有者が開墾中に発見したもので昭和24年に史跡として道知事の仮指定を受けた。東大教授駒井博士によれば、欧州、アジア、シベリアにわたって広く分布しているもので、遺構の性格については、古くから墳墓説、日時計説、天文観察説、祭祀場説などの諸説がある。昭和26年秋、本遺構を駒井和愛博士と北大名取武光助教授が調査したところ、人骨の一部と思われる骨片、硬玉(翡翠)製玉類数点、深鉢型縄文式土器等を発見した。研究の結果3000年ほど前の先住民族が築造した墳墓と推定され、学術上貴重な遺跡である。

【御使記念】(石碑)
 昭和十一年秋當陸軍特別大演習 天皇陛下唯凌駕干本道之曠野也聖旨深遠行幸各地住震裏?業??十月七日遣使具視瀧壱農事実行組合光栄莫加?組合員或恐惶俯伏楷誓必應聖恩?暫刻碑以傳栄誉後?? 昭和十三年六月建立 後志支庁長 山田三義書

【曽我開拓の歴史】(説明板)
 曽我地区は、明治33年5月(1900年)東京の「曽我祐準」子爵が国有未開地1,222haを国より払い下げを受け開場、同34年春より小作人を募集、まず23戸を迎え開墾の鍬が入り、明治43年には小作人142戸2,296haの本町の大農場となる。
 場主曽我氏は東京に住み政府の要職にあったことから、農場には監督、下監督、初期、測量員、総代を置き経営にあたらせたが、水田試作、高地帯用水路造成、馬道整備、農業講習会、農産物品評会、造田補助、牛馬飼養奨励資金貸与、学校建設、公園整備、神社・寺院の建設等々開場当初より小作人の育成、福利に遠大な計画をたて、地域の振興に尽力し、識見高く常に小作人を愛し激励された。
 昭和12年小作人代表等は村長と協議し、上京の上小作者に土地解放方を懇請、場主曽我氏はこれを快諾し、当時の農地調整法によって開放自作農となる。公園内の記念碑の丘には、曽我農場の歴史、場主の功績当時の苦闘を刻んだ由緒ある「開場20周年記念碑」「自作創設記念碑」「頌徳碑」が建立されている。
 場主曽我氏は、九州柳川藩士曽我祐興の次男として天保14年生まれ、元治元年の征長の役に従軍、慶応2~3年上海、香港、シンガポールに公開して、海軍の航海術を学ぶ。明治元年に新政府に出仕して海軍御用係となり、明治2年の箱館戦争は海軍の参謀として反政府軍と五稜郭で戦い、明治10年の西南戦争では第4旅団司令官として、反政府軍の西郷隆盛と九州各地で転戦、要職としては兵部権大丞、兵部寮頭、陸軍士官学校長、明治15~18年陸軍参謀本部次長を歴任され、後に東宮大夫、宮中顧問官、貴族院議員、枢密院顧問、鉄道院総裁等を歴任し昭和10年熱海の別荘で逝去(享年93歳)。
 曽我のいう地名は、昭和12年字地番改正の際、役場において「芙容」との提案があったが、地域住民が場主の偉業を讃え、曽我の名勝を強く希望したから「曽我」と命名された。(以下、略)

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