里見公園・明戸古墳・法皇塚古墳・弘法寺・中山競馬場

古墳・ストーンサークル・墓所

平成22年(2010)12月26日(日) 千葉県市川市矢切~里見公園~明戸古墳~法皇塚古墳~弘法寺~中山競馬場

 今日の午前中は家の大掃除。11時頃解放されたので、千葉の市川の古墳を巡り、船橋の中山競馬場で有馬記念をみることに。
 12時頃に新橋に到着し、銀座まで走ってウインズ銀座で馬券を買う。その後、東銀座で浅草線・北総線に乗って矢切まで行く。ここに着いたのが一時過ぎ。江戸川が綺麗でここに細川たかしの矢切の渡しがあったところだ。そこから江戸川沿いに南下して里見公園に向かう。里見公園は太田道灌が造営した国府台城跡だそうだ。公園の中で子供たちがサッカーをしている広場の横の高台に登ったら二つの石棺があった。そこが前方後円墳の明戸古墳だった。この辺は旧下総の国で国分寺のおかれていたかつての中心地であったため古来から豪族の盤踞していたそうな。そこからすこし南下すると東京医科歯科大学になり、恐らく塀の向こう側にみえていた小山の藪か法皇塚古墳であろう。そこからさらに千葉商科大学の横を通り弘法寺に向かう。すぐに到着したが、寺の境内で案内板もなくよくわからないが、関東古墳散歩の本を見て、鐘つき堂のある小山が真間寺古墳、小山の藪が弘法寺古墳とわかる。
そこからお寺の参道見たいな細い道を南下。商店街になっていて古い店も結構ある。国道十四号線、千葉街道まで走って、左折して船橋に向かう。鬼越まで来て県道59号線に入る。何と登り坂である。また、有馬記念の15:25まであと三十分しかない。ここでスパートする。汗ダクになって中山競馬場に到着。さすがに都会の競馬場だ人だらけである。スタート前十分前に都会に到着。ファンファーレの前に陣取る。スタート前の盛り上がりがすごい。目の前のビジョンに白鵬が映った。スタートである自分の買った十四番のペルーサは恐らくよん着でjraに数千円寄付しました。帰りは西船橋まで走り市川で横須賀線に乗り換えて帰りました。今日も結局、三時間位走ったな!

【里見公園・国府台城】市川市国府台3-9
里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。
 その後、室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。
 江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。

【明戸古墳】
 市川市の文化財に指定されているこの2つの石棺は公園裏山内にあり、文明11(1479)年に太田道灌がここに城を築いたときに盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。板のような緑泥片岩製の組み合わせ式箱型石棺で蓋石は見られませんが古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)この地方に勢力をふるっていた豪族の墓と推定されます。この地方に箱型石棺があるのは極めて珍しいといわれています。

 里見公園から東京医科歯科大学にいくとおそらく法皇塚古墳。
【法皇塚古墳】
 国府台二丁目の東京医科歯科大学構内に法皇塚古墳はあります。六世紀につくられた全長63メートル、後円部径32メートルの前方後円墳で、明戸古墳・弘法寺古墳・丸山古墳などの国府台の古墳群の中では最大規模ということです。
 古墳は簡単にいえば、昔の王などの墓です。この古墳に埋葬されたのも、やはり、この地域の歴代の首長だったのだろうと考えられています。そして、その首長の遺体が置かれた場所が、直径24メートルの後円部で、西側に入口のある横穴式石室となっています。
 この石室からは、三本の太刀をはじめ、たくさんの武器や馬具、ガラスや金・銀で作られた装身具が発見されています。そして、埴輪も形がある程度わかるものが二点みつかっており、一つは首飾りをした男性の埴輪、もう一つは家形埴輪と呼ばれ、どうやら倉庫を形作ったもののようです。また石室に入口があったというのは、これを開閉することで追葬ができたからということです。
 現在は樹木が生い茂り、古墳といわれてもいまいちピンとこないのですが、確かに周囲の部分よりも少し盛り上がっていて、その雰囲気はどこか神秘的です。

【弘法寺】市川市真間4-9-1
 ここ真間山、弘法寺は奈良時代天平九年行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、手児奈の哀話からいたくその心情を哀れに思われ、一宇を建てて「求法寺」と名づけ、手厚くその霊を弔われました。その後、弘法大師がおいでになられた時、寺運を一新して「求法寺」から「弘法寺」 と改称されました。その後、鎌倉時代に入り、建治元年(一二七五)に時の住持、了性法印尊信と、中山法華経寺、富木常忍公との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人を対決させられました。その結果、日頂上人が法論に勝たれたため爾来弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることになりました。

 お寺の中に古墳(真間寺古墳・弘法寺古墳)があった。

 中山競馬場に向かう。

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