平成21年(2009)7月19日(日) 小諸宿旧本陣跡→武田信繁墓→釈尊寺→寅さん記念館→小諸城
お墓参りの後、布引観音の釈尊寺に走って向かう。途中で、旧本陣を通る。ちなみにこの通りは北国街道と言われたそうな。
武田信繁の墓は、民家の墓地の中にひっそりと建っていた。
【武田信繁の墓】長野県小諸市大久保232
武田信繁は、武田軍の副将として活躍しましたが、永禄4(1561)年9月の川中島の戦いで戦死しました。最後まで信繁のそばで奮戦した忠臣山寺佐五左ェ門は、この川中島が大激戦地で御首級を収める場所がなかったので御体のみを埋め(川中島の典厩寺墓所)、首級は幌で包み、地蔵峠を越えて小諸へ向かい、信繁の嫡男信豊の家臣等と相談し信豊の領内のこの地を選び、有合わせの陣鍋で首級を覆い葬ったといわれています。江戸時代の寛保2(1742)年の千曲川大洪水で信繁の墓碑(五輪の塔)が流失しましたが、嘉永2(1849)年この付近の畑中よりそれと思われる円石が発見され判読の結果信繁の墓碑と判明しました。その墓碑は現在布引山釈尊寺に寄託されています。今の墓碑は明治20(1887)年に建立したもので、信繁の首級はこの墓の下に往昔のまま陣鍋に収められ静かに眠っているといわれています。
その後田園地帯を通って釈尊寺にお参りする。鬱蒼とした山道を15分ほどかけて登ると着く。それにしても歴史を感じさせる建物だ。
【釈尊寺・布引観音】長野県小諸市大字大久保2250
小諸駅の西よりにある行基創建という天台宗の名刹。断崖絶壁にかかる観音堂に安置されているのが、牛に化身して、強欲な婆さまを長野善光寺に連れていったという布引観音様です。
「牛にひかれて善光寺参り」とは布引山釈尊寺に伝わる縁起書にある幻牛伝説で、むかし信心を持たないおばあさんが、自分が干していた布を角にひっかけ走り去る牛(観音様)を追いかけ、気が付くと長野の善光寺までたどり着いたことから観音様の導きだったと悟り、今までの欲張りで意地悪な心を悔い改めたと伝えられています。その逸話から「思ってもいなかった出来事や、周りからのはからいによって、自分が良い方向へ導かれること」のことわざとなっています。
正式名称は、天台宗布引山釈尊寺。信濃三十三観音霊場の第29番札所にあたります。神亀元年(724)行基による開基と伝えられています。望月の牧と深いかかわりを持つ寺で、滋野氏(望月氏)とのつながりも古くからあったと推測されます。
岩を削って数多くの伽藍(がらん)が安置され、江戸時代には「断崖の観音様」として絵図で紹介されるなど、街道を往来する人が足を延ばし賑わいました。
布引観音の崖には200万年前から数十万年前まで存在した古小諸湖の堆積物による地層が露出して、長さ16mの「布岩(ぬのいわ)」があります。この布岩が「牛にひかれて善光寺参り」の仏話発祥の元になったのではないでしょうか。この岩の下の里を布下といいます。
帰る途中で、晴れてきて浅間山も見えてきた。
小諸市内に戻って、寅さん記念館を訪問する。渥美二郎さんの国民栄誉賞も拝見することができた。
最後に懐古園小諸城に登城。
【小諸城】長野県小諸市丁
日本100名城の一つ、小諸城。浅間山から千曲川に至る、小諸の地勢を存分に活用した天然の要塞としての面白さを、今なお存分に味わうことができます。小諸城はその城郭が城下町よりも低い場所に位置する「穴城(あなじろ)」であり、これは小諸城が日本で唯一といわれています。武田信玄の命を受けた重臣が縄張りをし、城郭を整備したと伝わっています。この頃、小諸城は、別名として酔月城とも呼ばれていました。
武田氏が滅びると、小諸城は織田信長の将・滝川一益の持城となりましたが、信長が倒れると、北条氏が滝川勢を(蹴散らして)小諸へ侵攻しました。この後、しばらく徳川、北条、上杉に真田も加わり争奪戦が展開、やがて豊臣秀吉の仲裁もあり徳川氏の所領となりました。その後、豊臣秀吉が、天正18年(1590年)小田原(征伐)で北条氏を(討ち取り)、天下を統一すると、徳川家康が関東に転封され、 仙石秀久が小諸五万石の大名として小諸城主となります。
秀久は、秀吉の許しを得て、本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を備えます。現在では当時築かれた天守台に「野面積み(のづらづみ)」の石垣だけが残っています。慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」に中山道を進んだ徳川秀忠の東軍が小諸城に入ります。この時、西軍・真田氏の上田城を攻めた「第二次上田合戦」では、秀忠軍が苦戦の末に敗退天下分け目の合戦だった関ヶ原にも遅参してしまうという逸話で知られています。江戸時代になると、小諸藩の初代藩主となった仙石秀久は、現在もその姿を残す大手門や石垣などの城郭整備をはじめ、小諸の城下町や街道の整備をおこないました。仙石氏が上田藩(長野県上田市)に移封されるまでの32年の間に現在の小諸の町の原形が築かれました。その後、小諸城の城主は徳川氏・松平氏などに変わり、元禄15年(1702年)与板藩(新潟県長岡市)から移封された牧野氏が十代・170年に渡り藩主を勤めました。
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