六號野上駅逓跡

古木

令和6年(2024)11月17日(日)遠軽町野上

 道の駅遠軽森のオホーツクの入口の近くに上記の石碑が建っていた。保全樹木である大木と農耕馬と思わしき碑も立っていた。

【六號野上駅逓跡】
 上記のとおり左側に刻まれており、「遠軽町長(読み取り不明)」が添えられていた。その隣にびっしりと沿革が刻まれていた。
 「明治二十五年に、中央道路と基線道路が完成され、北見国より石狩国に通ずる内陸への交通が開かれるようになって、網走から上川までの沿道は、うっそうとした樹木に包まれる二二八キロの区間に、一二キロから一六キロおきに駅逓舎を設けて交通の便が図られ、北見国には越歳・端野・相の内・留辺蘂・佐呂間に続いて、この駅逓が六番目に置かれていたから、別に「六号駅逓」とも呼ばれた。
 駅舎は木造平屋で、一一三平方メートル、ここには宿泊施設もあって、官馬七頭が配置され、旅行者の求めに応じて、次の駅(滝の下)まで乗せた。
 荷物の運送は、主に駄馬送によったが、後に荷馬車を使い、積雪期にはそりも利用され、また郵便路線は三段階に分かれて、中央道路と基線道路は、三等路線区間になっていた。駄馬送は小包専送で、騎馬送及び人夫送は小包・郵便の併送で、約六キロと決められていたが、この駄馬送はこの駅逓にはなく、騎馬送と人夫送によった。荷物の運送重量は、騎馬の場合三〇キロまで、人夫のときは一五キロまで背負うことになっていた。
 その後この駅逓は、湧別鉄道が大正元年に留辺蘂まで開通し、交通は木町を通り、湧別・紋別を経て名寄方面に行く者が増えたので、大正二年六月、安国に移転されたものの、大正十一年、名寄線の全通によって同年六月廃止されている。
 なお、この駅逓の取扱い人角谷政衛氏は、新潟県魚沼郡神立村出身で、湧別から明治二十五年十一月、野上に移住して来た。ここにおいて、本町に初めて和人の炊煙が上がり、これが原野開発の糸口になった。
遠軽町史より 平成三年十一月一日建立 野上駅逓百年記念碑建設期成会」

 裏面には期成会の役職や氏名が刻まれるとともに、近隣の駅逓の地図が刻まれていた。そして次のような漢文も刻まれていた。「駅逓懐古 佐藤靖翠作 先人熱血漲乾坤拓道開郷跡尚存青史百年桑海感遺芳千載伝児孫」

【6号野上駅逓の大木】
 明治25年開設された駅逓の周りに明治30年、駅逓の取扱人であった角谷政衛が天然エゾ松とトド松を植栽したもので、本町で初めて植栽された樹木である。

【愛馬四號之碑】
 表面は上記のとおり刻まれ、裏面には「昭和十三年三月二十四日 施主(氏名)」が刻まれていた。

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