様似町(等樹院、カムイチャシ、エンルムチャシ) 観音山(101m)
令和3年(2021)8月8日(日)7.0km 1時間14分
日高南部の旅2日目。今日の午前中の行動は様似町内のランニングである。町民センターに車を停めて、西方面に走り始める。最初に到着したのが等樹(ただしくはサンズイの樹という字)院である。
等樹院は蝦夷三官寺の一つで、道に徳川十一代将軍家斉公文化三年(1806)建立とあり、歴史を感じる。ちなみに蝦夷三官寺とはアポイジオパークのホームページによると次のとおり。
【蝦夷三官寺とは】
シャマニ(様似町)、ウス(伊達市有珠町)、アッケシ(厚岸町)の3ヵ所に寺の建立を決め、1806(文化3)年、様似の等樹院《とうじゅいん》(天台宗)、有珠の善光寺(浄土宗)、厚岸の国泰寺(禅宗)の三寺が、まだまだ未開の地であった東蝦夷地の要衝に完成したのです。これが「蝦夷三官寺《えぞさんかんじ》」です。
次に坂を登って観音山に登っていくと観音山遺跡の標柱があった。そして鬱蒼とする森の中の道を登っていくと御神木があり、たくさんの観音様の石仏様があった。ここは三十三観音霊場で明治38年蝦夷三官寺等樹院第13世塚田純田大和尚の発案で、当時円山と呼ばれたこのちに三十三体の観音様が奉納されたという。
右側に進むと「カムイチャシ」の石碑があった。カムイチャシは日本城郭体系等にも情報がないので以下のブログから情報を入手した。
https://blog.goo.ne.jp/chashichashi/e/a34a45981b71cff0f4ce7cfd7c28c657 へのリンク
【カムイチャシ】
・城 跡 名:カムイチャシ
・所 在 地:北海道様似郡様似町潮見台
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形 態:丘先式
・主な遺構:不明
・大きさ:不明
・標高:標高不明、比高:不明
・説明板:昭和53年9月建立、北海道ウタリ協会様似支部建立
・概要:カムイチャシはトカチアイヌとの紛争の際にシャマニ(様似)アイヌの本陣があったとの伝承がある。伝承によれば、様似に侵攻したトカチ(十勝)アイヌはエンルム岬にあるエンルムチャシに入城してシャマニアイヌと対峙したが、食糧が乏しくなっていた時に海岸に鯨があるのを発見し、チャシを出て鯨に向かった。ところがそれは砂の鯨で、トカチアイヌはあっけにとられた。その時シャマニアイヌがカムイチャシと支城から打って出て、トカチアイヌを撃破したという。
次に観音山の展望台に登る。快晴の下絶景が広がる。
観音山をあとにし運動公園の横から親子岩の方に降りる。親子岩も伝説がある。
【親子岩伝説】
この岩には、先住民族アイヌの悲話が残されています。その昔、戦いに敗れた集落の長がまず妻子を逃したが、様似まで来た妻は逃げ切れないと観念し、子どもを抱いて海に入り小岩(親子岩の東方にあるソビラ岩)になってしまいました。
妻の後を追ってきた長はそれを見て自分も海に入りその西方で大岩になりました。追いつめたはずの敵の長はこれらを見てくやしがり、大岩の方めがけてヨモギの矢を放つと、大岩は3つに砕け今の親子岩の姿になりました。
あたかも親子3人のようなたたずまいから、後世「親子岩」と名付けられましたが、その実はアイヌの長一人というのは、いささか脈絡がないともいえます。
「夫婦岩」と呼ばれるものは全国各地に見られますが、子も含めた3つの岩が並ぶのは珍しいものです。
親子岩を後にし、様似漁港を通ってエンルムチャシに向かう。風が強い中、斜めになっている木道を登るとエンルムチャシの標柱が建っていた。対岸の観音山、様似市街、アポイ岳、海岸が良く見えた。
【エンルムチャシ】
・城 跡 名:エンルムチャシ
・所 在 地:北海道様似郡様似町
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形 態:丘先式
・主な遺構:なし
・大きさ:不明
・標高:50m
・説明板:なし
・概要:「アイヌ伝承と砦」(宇田川洋著)
①いつのころかはっきりわからない。剽悍で島中に勢力を持っていたトカチアイヌが攻めてきた。そこでシャマ二アイヌは、第一陣をソピラヌプリ(観音山)とし、第二陣をシッポカマ(塩釜)に配置した。勇敢に防御して一歩も譲らず大いに気勢をあげたので、さすがのトカチアイヌも攻勢を釘付けにされてしまった。
そこでトカチアイヌは、エンルムにチャシを急造して対陣し、どちらも動かず日が経っていった。ある朝、ウンペの浜に大鯨のあがっているのを見つけたのはトカチアイヌである。長い間の対陣で、食糧に困っていた彼らであるから、敵前ではあるが危険を冒してその場所に走った。
ところがそれは鯨ではなくホタフンベであった。それは砂鯨の意で、打ち寄せられた砂山が鯨の形をしているのである。彼らは唖然としてその周りに立っていた。これを望見したシャマ二アイヌ軍は、前後のチャシからいっぺんに時の声をあげ息もつかせず攻め立てて、大勝利をえた。
②むかしむかし、エンルムに酋長がチャシ(砦)を構えていた。この酋長は世にもまれにみるエペタム(利剣)を持っていたので、皆に狙われていた。ある時この酋長のチャシを攻めに来た者がいて、チャシを巡り大争闘がはじまったがなかなか陥ちそうにもない。互いににらみ合いがながく続いて休戦状態になった。
ところがある日、酋長が跡のエンガルウシ(エンルムの中の最高所)に登って見ると、ウンベツ(海辺川)の対岸に一頭お大鯨があがっていてその上空に鴎が舞い群れている。これを見た酋長は大いに喜んだ。ほかの者に拾われては大変とばかりに、一族郎党を引き連れてそこを目掛けては馳せつけたが行って見てがっかりした。砂盛の上に小さな魚類をまき散らして、鴎はそれをめがけて群れ飛んできているのであった。
しゅうちょうは自分の髪をひっつかみ「エラミキタララ」(驚いたな)を連呼したがもう遅く、すでにエンルムのチャシには、敵の酋長が押し寄せ、あの貴重なエペタムを片手にさしあげて歓声をあげていた。まんまと敵の謀略にかかったのである。
③中古シヤクシヤ相ノ(アイヌ)といへる強勇なるもの、金堀庄太夫といへる悪徒をかたらひ騒動せしは此処なりと聞り、何の記録等にも東部とのみしるして有る故何人なるやと思しが、今宵の物語に聞けるに其節さるの夷人どもは即ち松前家へ味方せしことなり、右シヤクシヤ相ノは此シヤマニの出さきの高みにチヤシ(城)を構へ、己が俳諧の相ノをして皆守らしけるを其時地頭蠣崎蔵人が先祖山の下に陣取し、其量道を立切玉えば下りて食を求むることならずして餓死したりと云う。即金堀庄太夫なるものは鉄砲を構へ手下の相ノ召し連れてモクチの川岸を誤る時に、地頭蠣崎蔵人巌中より躍り出て真っ向に立ち向かいけるに、金堀庄太夫なるものの鉄砲をななめにもちて其鉄砲に面切れ払出たるとき、其鉄砲筒中より切れて金堀庄太夫なるものの切殺されしと。
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