むかわ町穂別地区のチャシ

城郭・チャシ

むかわ町穂別地区
 穂別町農村公園駐車場~ペップッチャシ跡~茂別地区~隆農・中村地区~オビラルカチャシコツ跡(穂別高校テニスコート横)~穂別博物館~中村記念館~穂別神社~ニサナイチャシ遠望~駐車場
 
 令和2年(2020)11月14日(土)16.8km 2時間30分

 吉方でまだ行ったことがないむかわ町穂別地区を走ることに。穂別地区の中心部に車を停めて走り始める。町民センターの南側の高台がチャシっぽい。道を辿ると地蔵堂もあり、坂道を登りきると墓地だった。しかし、街に臨むテラス状の方に行くと白い標柱が立っていた。「ペップッチャシ」跡である。ネットで検索しても出てこない。

【ペップッチャシ】
・城 跡 名:ペップッチャシ
・所 在 地:北海道むかわ町穂別525-3
        マップコート567 301 848*83
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:不明

 同チャシ跡をあとにして、車で来る途中で見つけた市街の北側約3kmの茂別地区の農魂の碑があったので、そこまで走ることに。

【道営穂別地区 圃場整備竣工 農魂 北海道知事 堂垣内尚弘書】
 碑文 戦後、食糧増産を願い、昭和28年頃から、茂別、喜宇寿地域でも幾多の困難を乗り越えて、造田灌漑の悲願を達成した。
 今日の農業の基礎を築き、農業生産の向上と経営の安定につとめられた先輩の努力を忘れることは出来ない。
 現在、農業の進展に伴い、農地の総合的な基盤整備の推進に、各関係機関の助言と指導の及ぶ処となり、昭和51年に茂別、喜宇寿地域を道営穂別地区と呼称し、促進期成会を結成し事業の推進を図った。
 幸い諸官庁の協力と理解を得て、、昭和52年起工の運びとなり、水田面積112ヘクタールの区画整理を行い、更に必要圃場に暗渠排水を施し、昭和57年度まで、六か年に渡り工事を実施したのである。又、同時に地区内の土地権利関係が整備され、昭和58年に換地処分が完了し、七か年の歳月を経て、総事業費11億6千万円余で完成する。
 受益者25戸の喜びはもとより、この記念すべきとき、我々は更に将来への飛躍と気持ちをかけて、決意を新たにすると共に、この竣工を迎えるにあたり、先輩各位の偉業を讃え、記念碑を建立し顕彰するものである。
 昭和57年9月吉日 道営穂別地区圃場整備事業促進期成会

 茂別地区をあとにして道を戻ると、隆農・中島地区マップという看板があり、左折して進む。上り坂を登っていくと、高台の向こうに笹を刈っているところがある。ここもチャシぽいがよくわからないので進む。道を登りきると、高台の畑作地帯が広がり、長芋が収穫されていた。
 同地区を走り、また穂別市街の南側から、穂別高校近くのオビラルカのチャシコツに向かう。高校の手前に「碑 国際先住民年 ウタリ協会穂別支部 1993」なる碑があった。その横の碑の文が感動的だったので転載する。

【碑文】
 北海道は、豊富な資源に恵まれたアイヌモシリであった。アイヌはこの地で漁労、狩猟などによる平和的な生活を営み、すばらしい生活文化や文学、芸術を生み出してきた。
 15世紀に入ると、和人がアイヌモシリ南端に住むようになり、はじめは数も少なくアイヌと力を合わせて仲良く生活が営まれていた。しかし16世紀に入り、本州との交易がさかんになるにつれアイヌが大切にしていた資源の略奪がはげしくなり、次第にアイヌの不満がつのり再三にわたって闘争が繰り返された。1669年のシャクシャインの戦に敗れたアイヌは、以来松前藩の政策下で窮乏と苦難の歴史がつづいた。
 当時の穂別は、雪も少なく水の清い川にはさけやますが群をなしてのぼり、鹿は地上を黄色くなるほど生息していたといわれ自然に恵まれた平和なコタンであった。
 一方明治の初期頃より政府の手による北海道の開拓が進められるに伴い穂別にも和人が鹿道を辿って入地した。しかしながらその不安と困難は筆舌につくし難いものがあった。
 われわれの先祖は和人に多くの支援と利便を供与し風俗習慣を異にしながらも共にその開拓に地と汗の斧をふるったのである。
 今日の穂別町の繁栄とその基礎づくりに果たした先駆者アイヌの功績は燦然と輝く。
 1982年7月、開町70年町制施行20年記念にあたりその苦難の歴史を忍び、これを讃え後世の碑とする。

 穂別高校の脇にきたが、どこがチャシかわからないが、以下のサイトを調べると高校のテニスコートの横にあるという。

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/siro/chasi/html/obiraruka.htm へのリンク

 テニスコート下の法面から踏み跡があり辿って、林の中に入ると、チャシ跡の説明板の痕跡があった。周囲には壕もある。おそらくここがオビラルカのチャシコツだろうと推定して、そこをあとにする。

【オビラルカのチャシコツ】
・城 跡 名:オビラルカチャシコツ
・所 在 地:北海道むかわ町穂別127-1
        マップコート567 362 223*62
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:弧状1条

 オビラルカチャシ跡をあとにして、むかわ町博物館を訪問する。入館料300円で館内は恐竜の骨格など古代の化石で溢れている。ここはそれほど興味がなく、すぐに外に出ると隣に「旧中村平八郎家住宅母屋」があった。歴史を感じさせる建物だ。

【旧中村平八郎家住宅母屋】
 この建物は穂別村開拓の先駆者の一人、中村平八郎によって大正13年に建てられました。
 その後、二代目の中村耕平氏が受け継ぎ昭和48年間まで約50年間住宅として使用されていたものです。
 開拓時代を象徴する洋風建物であり、構造材、造作材ともに主材料に広葉樹(タモ、カツラ材)を多用しているのが特徴で、道内でも希少な歴史的建物であると言えます。
 起り屋根の玄関庇をもつ鉄板葺、片入母屋造、平家建の主屋を中核として、玄関左手に鉄板葺、切妻造、下見板張、二階建の洋館を配置していますが、北海道内陸部における大正期邸宅建築の様子を知るうえで貴重な資料となっています。
平成6年9月20日 中村ミトリ氏より穂別町に寄贈
平成16年11月25日 穂別町ニサナイ地区から現在に移築保存

 中村家住宅から穂別神社を経由して、ニサナイチャシに行ってみる。鵡川と穂別川が合流する東側の河岸段丘にあるとするが、よくわからなかったので、それらしき河岸段丘を撮影して引き返すことにした。家系城郭研究所さんも自分と同じく遠望に終わっている。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/h26gaiyou.mukawa.Nisanaityasiato.pdf へのリンク

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/siro/chasi/html/nisanai.htm へのリンク

【ニサナイチャシ】
・城 跡 名:ニサナイチャシ
・所 在 地:北海道むかわ町穂別461
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:面崖式
・主な遺構:壕半円状1条

【東雲(しののめ)チャシ】
・城 跡 名:ニサナイチャシ
・所 在 地:北海道むかわ町穂別461
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:面崖式
・主な遺構:壕半円状2条

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