雨竜町史跡公園

古木

雨竜町(田園の里うりゅう<道の駅>~雨竜市街~雨竜町史跡公園~農道~道の駅)

 令和2年(2020)7月10日(金)8.4km 1時間2分

 今日の史蹟ランニングの目的地は雨竜町。道の駅に車を停めて市街地に走り始める。天気予報は外れてお日様が出てきて暑くなってきた。雨竜市街には見るべきものは特になく、右折して暑寒別岳の登山口方面に向かう。およそ2km直進して、右折して2km直進すると史跡公園に到着した。ここは明治時代に士族の蜂須賀氏が開拓したところだ。以下、説明板を転載する。

【転載はじめ】赤松並木の由来
 この松並木は、明治26年(1893)頃、侯爵蜂須賀茂韶が、農場創設に必要な用具を国元(徳島県)から雨竜に輸送の際侯爵家の菩提寺(浅草海禅寺)に自生する赤松の苗木を同函し事務所通路に植えたものといわれている。
 風雪に耐えた樹肌には、開拓当時の苦闘を思わせる強靭さをもち、本町開拓の年輪が刻まれ、先人の苦労が偲ばれる。
 この並木は、その由来年輪からその価値が認められ昭和50年北海道開拓記念保護樹に指定された。
 町内各所に見られる赤松の成木は昭和2年蜂須賀農場が、小作人に農地を解放した記念として、ここで育った苗木を農家に配布したものである。 雨竜町教育委員会
【転載終了】

【転載はじめ】雨竜開拓の拠点、蜂須賀農場跡
 道央地帯における米作りの始祖を蜂須賀茂韶といっても過言ではない。明治22年(1889)茂韶が、侯爵三条実美を盟主とする、戸田等6人の華族とともに、組合農場を組織し政府から雨竜原野1億5千万坪(約5万ha)にわたる広大な未開地を借り受け、専ら米国式農法による牧畜主導の経営を志し、開拓に着手した。
 明治24年、三条公の死去により組合農場は解散したが、茂韶は初志をかえず、再度独力をもっておなじ雨竜原野に農耕適地950万坪(約3,160ha)、山林900万坪(3,000ha)の貸付許可を得て、蜂須賀農場を創設し、この場所に事務所を置いた。当時の開墾は、畑主体で進めていたが、明治26年けい眼な彼は、この地方が水田可能地であることに着目し、水稲試作に着手した。
 明治27、8年の日清戦役により労働者は極度に不足し、大農法経営に支障をきたしたので、これを小作方式の開墾に改め、明治30年彼の旧領有地徳島県より130余戸の集団を入れ、その後富山県等から年々多数の入植者を受け入れ開墾を進めた。
 水稲試作により可能性を認めた茂韶は、、明治32年私費15万円を投じて、尾白利加川を水源とするかんがい工事に着手し、5年の歳月を経て、1,565haにおよぶ水田のかんがい施設を完成し、本町最初の造田化が進められた。
 以来、小作農も一千戸を越え、新興米作地として世人の注目を浴び、明治40年には、小作米二万五千俵を数え、地方には「ご農場」と呼ばせ、茂韶、正韶、正との三代にわたり本町行政まで支配する大農場であった。水稲試作は年とともに隆盛におもむき、水田雨竜の名を田からしめした。しかし、大正9年(1920)から十余年間も続いた小作料問題の争議や、これに伴う農民運動は世に知られるところであり、その本拠もこの場所である。
 かくて、昭和22年(1947)農地制度の改革により、農地のすべてが小作人に解放され、本町開拓の拠点として威容を誇った蜂須賀農場は創設以来60年の歴史をここに閉じたのである。 雨竜町教育委員会
【転載終了】

【法運小林幸太郎先生の像】・・・よくわからないが、雨竜町開拓期の功労者で、当時の蜂須賀農場の上席顧問だったそうだ。

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