平成24年(2012)6月17日(日)
北檜山の家~若松市街~(栄経由)~太櫓~新成~大成に行く道の突端~北檜山 11:00~16:30頃
無謀にもサロマ湖100kmを1週間後に控えているので、今さらであるがLSD(ロングスローディスタンス)を走る。いつも通っている若松市街に向かって、そこから太櫓に抜け、大成に抜ける道の突端まで走り、そこから北檜山に帰った。若松は入植の歴史が数多くあった。天気が予想外に晴れて暑く体力を消耗。さらに新成の先は、人通りが少なく、案外遠く、さらにヒグマとの遭遇を恐れながら走った。
なんだかんだ言っても、5時間半も走りました。ゆっくり走ったがおそらく40km程度は走ったと思う。しかし、地図で見たら行き止まりから大成の太田漁港までは5km程度しかないと思う。近い。
【下若松の柳】(概要)
函館バス停留所「柳前」で親しまれているこの柳は青木七兵翁が傘寿を迎えた記念に小公園を作る構想の下に「オンコ」の木二本とともに下若松青年団の労力奉仕により移植された。夏は急速の場所、または北桧山若松間の目印として利用された。昭和61年国道拡幅改良計画がすすめられた折、これらが伐られることになったが、地域住民の強力な保存要請により現在に至る。柳は樹齢約70余年に樹高はおおむね12mにも達しT字路にどっかと根をおろし、地域のシンボルとなっている。
【祖の松】(説明板概要)
明治29年3月岩代国(福島県)の若松の人高瀬喜左衛門ら同志8名で会津殖民組合を設立、北海道で大面積の農業経営をすべく、上川郡、十勝利別川流域を出願したが許可されず、転じて太櫓村で500町歩の賃下げ出願をしたところ、7月31日に許可になり、組合員2名の委員による実地調査を行うため、穴沢祐造が組合主任、笹原倉次郎が農場管理者として渡道。ベニカモイから子船で太櫓川をさかのぼり、土地の測量をしている中、雌雄の巨大なオンコを発見し、これを祖松と名付け、この地を若松と称することにした。末可遣亭 栄えゆくよ遠 二もとの 御松の松能 い詠ふしる可奈 雅長」解読は「末かけて 栄えゆくよを 二もとのみおやの松の いろぞしるかな」作者の北原雅長は、会津藩家老神保内蔵の第二子で、非戦論者で藩命により切腹した神保修理の弟で藩公に従い蛤門の戦、籠城戦に参加、維新後は官界の人となり初代長崎市長などを務めた。明治40年歌道研究会を主宰、大正2年7月、享年71才で没す。
【北原雅長の歌碑】
皆飛と乃 津久春ここ呂の 深錘 以与いよ茂連 若松の里
説明はせたな町広報誌から転載。
明治29年福島県会津若松の経済人高瀬喜左衛門ら八名が組織した殖民組合によって拓かれた若松地区に、当時の縁を偲ぶ二首が刻まれた歌碑があります。
歌碑は樹齢600年を超える雌雄のイチイ祖の松と新函館農協若松支店事務所横に、若松開拓35周年記念事業で建立したことが「わかまつ百年記念誌」に記されています。若松地区の開拓事情に詳しい板垣好英さんは「碑は語る」の中で、和歌の作者北原雅長の来村について「郷土史研究No.38(佐藤信人著)」で、『明治39(1906)年9月に初めて北海道に渡り、穴澤祐造(若松農場組合主任)とともに若松開拓地を訪れた』との記述を紹介しています。
せたな町には近年、会津高白虎隊剣舞会、会津民族研究会、会津会、若松農場殖民組合創設者子孫など会津関係者の訪問が続いています。昨年10月には北原雅長と系譜を同じくする北原秀光氏(宮城県仙台市在住)が来町され、二基の歌碑と穴澤家子孫の達也氏が後に若松山法覚寺へ寄贈した三幅対の直筆掛軸に、北原家一族として初の対面を果たされ、先人に想いを馳せていました。
秀光氏は現在、北原家15代目として会津藩士子孫会の会長を務めており、明治3(1870)年から翌4年にかけて、青森県斗南から移住した13戸のうちの旧会津藩士篠塚哲右衛門の子孫・篠塚三喜郎さんの案内で旧会津町など瀬棚区内を巡り、旧藩士子孫同士の交流を深めていました。
■若松の歌を詠んだ北原雅長とは
北原雅長は天保14(1844)年会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれ、母方の実家北原家の養子となる。京都守護職となった藩主松平容保とともに京に上り禁門の変に参加。後に籠城戦を指揮し敗戦。明治6年赦免され工部省に入省、明治22年初代長崎市長などを務めた。引退後は静岡県浜松で会津藩の幕末最後の7年間の激動の歴史をまとめた「七年史(上下巻)」を明治37年に出版。余生を歌人として送り、この間の明治39年9月に開拓10年を迎える若松農場に来村している。大正2年71才で病没。
■北原雅長・若松訪問の経緯
明治39年初秋に小樽に在住した曾祖父光近(11代目)の婚儀が行われ、北原家一族として北原雅長が出席していること、会津経済人穴澤祐造の歌の師を通じて懇意の関係にあったことから、来道の機会に穴澤祐造の奨めで同年9月、若松に来村した北原雅長は、祖の松で二首、遊楽部園(法覚寺境内)で一首を詠んでいる。
なお、北原家六代光裕(家老職)と丹羽家七代能教(後に家老職)は、文化5(1808)年正月に樺太北方警備の陣将、軍事奉行として出兵し命運をともにするなど、両家は、保科・西郷家の係累として関係が深く、北原雅長が若松に来村の際に丹羽五郎を訪ねた可能性は高い。(北原家15代秀光氏後日談)
【若松開拓百年碑】
「会津の人ら移り来て、若松の原野に鍬を振り、この地を拓きて百年に、四季の移りに色映えて、先人の遺徳偲ぶがに、緑増しくる みおや松、遊楽の園より遠く望み見る、永久のしあわせ祈るごと、高くそびゆるユーラップ湧き出でて沃野潤す太櫓川、益々栄えゆく郷よ新なる世に、遺志継ぎゆかむ手を携えて 更なる発展を願い この碑をたてる 若松開基百年実行委員会」
【栄の開拓記念碑】
碑文の題額は「念記拓開」下段の碑文「荒野を開發し以て人境と為す蓋し容易の業ならず。此地字をサツカイシヲンコヤと稱し、明治29年7月本村最初の區畫地として開除せられ、工藤佐平他28戸の団体移住し各一万坪宛ての貸下許可を得たり。當時巨木鬱蒼と天を覆ひ、茨棘地を塞き熊狸横行す荒屋を設け伐木開墾の事に従へて幾春秋具に辛酸を嘗めて漸く成功。明治33年12月附興□正□□□時の、村長斎藤保氏他2名發起して水田造成計画なる翌年灌漑溝の堀鑿を待ち造田に務め、爾来十有餘年現在戸数を18戸内出願時より工藤佐平林役藏二氏に過ぎすと□□。美田十餘町、畑40餘町、交通全く開け子孫永住の地として可也。開拓40周年を記念し碑を建て以て後世に傳ふ。昭和6年6月15日」※裏面には記念碑建設関係者14名の名が刻まれている。建立年:昭和6年6月15日 建立者:栄石・オンコヤチ両部落一同 所在地:せたな町北檜山区栄
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