キウス周堤墓群・島津農場跡等

その他遺跡

平成28年(2016)5月29日(日) サーモンパーク千歳~国道337号線を北上~千歳市中央~キウス周堤墓群から(道道226号線を西進)~(道道967を南下)~(道道600号線を東進)~千歳霊園横~細澤牧場Milkybell~サーモンパーク千歳
 29.4km 4時間10分

千歳日航JALマラソンを1週間後に控えているため、本日はLSDに行く。千歳神社で水を汲む予定もある。
 サーモンパーク千歳に車を停めて、国道337号線を北上。早速、根志越地区で、根志越八幡宮を発見、お参りしてさらに走る。本日は快晴、気温も低いため、空気が澄み切っており、遠くの山々の残雪が綺麗に見える。
 千歳東インターを過ぎると、キウス周堤墓群である。ネットから転載すると次のとおりだが、縄文時代の人の感性に驚くとともに、現代の文化への連続性がないことが不思議だ。

【キウス周堤墓群】
 北海道千歳市の北東、標高15~20mの斜面上に縄文時代後期後半(紀元前1,200年頃)に造られた大規模な集団墓です。地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで大規模なドーナツ状の周堤が造られます。その区画の中に複数の墓をつくる形式を周堤墓といいます。
 キウス周堤墓群は、広さ約4.9haの指定地内に8基の周堤墓が存在します。周堤を含む直径は18~75m、周堤上面から竪穴底面までは1~5.4m、2号周堤墓をつくる時に積み上げられた土の量は、推定で最大3,400立方メートルにも達します。竪穴内部には複数の墓穴があり、立石が伴うものもあります。
 土地を掘り下げても封土等を伴わない竪穴構造の埋葬施設は、世界の先史文化の中でも稀であり、縄文文化固有の墓制を示しています。周堤墓は、葬送や祖先祭祀に関する社会組織を示すものとしてきわめて重要であり、中でもキウス周堤墓群は、他に例のない規模の周堤墓が群集しており、この墓制を代表する存在といえます。
 
 さらに北上して、道道226号の交差点で左折する。途中長沼町の町内会館のところに、に旧鹿児島藩主、島津農場跡を見つける。説明版を転載。
【島津農場跡】
 江戸後期の旧鹿児島藩主島津斉彬は、度々水戸斉昭と議して蝦夷地開発を図る。明治2年の分領支配の時は琉球対策のため一時断念したが、明治31年島津忠重の代に至り、北海道開発の宿願を果たした。すなわち、上川の上富良野町と長沼町舞鶴繁殖の地である。長都三湖を中心に小作人約40戸を入れ草原を開いて305haの田畑を成墾し、寺院と鶴島神社を創り、学校を立て、本町南境の中心集落を築く。
 大正5年村岡平吉外に譲り、のち宮北農場となって農民に開放された。この地点は、その農場事務所地域である。
 
 さらに進み、道道967号線にぶつかり、左折し南下する。ここで約15km以上を経過し、疲れが出てくるとともに、道がまっすぐなのでこころが折れる。
 少し進むと「学生義勇軍流汗の地」の碑を見つける。開発局のホームページから引用すると次の通りだが、戦時中に学生を動員して運河を建設したらしい。

【学生義勇軍流汗の地】

幻の運河構想と学生義勇軍

昭和12年にはじまった日中戦争から国の統制は厳しくなり、「国民精神総動員運動」と称して、女や子どもなども軍事用の工場や農地に動員された。
その頃、千歳では石狩と苫小牧を運河でむすぶ構想が提唱されていた。運河の掘削は、氾濫を繰り返していた長都沼の干拓、太平洋と日本海をむすぶ航路の開削で、海軍も注目した。こうして、第二次世界大戦の戦局のひとつ「太平洋戦争」の開戦が色濃くなった昭和16年、運河を掘削するために全国の大学・高校生が、ネシコシ原野に動員された。約270名の学生達は、10日間、人力だけで長都沼~千歳川間の約400mの掘削を成し遂げた。工事は戦後、北海道に引き継がれ、延長1,700mが掘削されて農業用排水路として今も利用されている。いつしかこの排水路は、感謝の気持ちを込めて「大学排水」と呼ばれるようになった。学生達はその後戦地に赴き、帰らぬ者も少なくない。ゆかりの地には「学生義勇軍流汗の跡」という碑が建てられ、戦時下にあって活き活きとした若者の姿を今に伝えている(長沼町東6線南16番地)。

 さらに南下し、長都から千歳霊園に向かう道道600号線に左折する。霊園を過ぎると大きな牧場があり、Milkybellというアイス屋さんで休息しながら、ソフトクリームを食べて体を冷やす。その後は道の駅に4時間もかけて到着。千歳の末広の湯でひとっぷろ浴びた後、Aiba千歳でダービー観戦、千歳神社で水を汲んで帰りました。

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