シベチャリチャシ

城郭・チャシ

令和3年(2021)6月3日(木)
シベチャリチャシ跡(新ひだか町静内)

 日高出張泊の朝、宿から真歌公園に走りに行く。若いころに静内に住んでいて真歌公園にも何度か訪問しているが、チャシの認識はなかった。シベチャリチャシを初めて訪問。展望台がチャシであった。天気も良く大パノラマが広がる。壕も明確に残っている。
 帰りは、治山事業で通行止めになっていたが、ショートカットできる不動坂を降りる。ここにお寺があったそうだ。

【シベチャリチャシ跡】
・城 跡 名:シベチャリチャシ(別名:不動坂のチャシ)
・所 在 地:北海道日高郡新ひだか町静内真歌
        マップコート:888 870 349*65
・創建年代:17世紀中葉
・創 建 者:カモクタイン
・形  態:丘先式
・主な遺構:壕・直条3条(現状1条)
・大きさ:140m×110m
・標高:81m

・説明板:チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所といわれ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です。海や川などに面した眺めの良い丘や崖上に、1~数本の溝を掘って築かれています。
 シベチャリチャシは、「シャクシャインのチャシ」とも呼ばれ寛文9(1669)年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。
・伝承:島原の乱以降、世の中がようやく太平になりつつあった寛文9年(1669)にシャクシャインを対象とする蝦夷の乱、シャクシャインの乱が起こり、江戸幕府はもとより世間を大いに驚かせた。

・概要(家系城郭研究所さんから転載)
 静内町は北海道の東の文化と西の文化の接点ともいえる地域で、静内川上流から西方のシュムンクルと同川下流から東方のメナシウンクル両集団の接点でもありました。シュムンクルに属するハエの首長オニビシとメナシウンクルの首長カモクタイン、そしてその死後跡を継いだシャクシャインとは漁労権を巡り抗争を続けていました。両者の争いは松前藩を仲介に一度は停戦となりましたが、その後再発し、オニビシが殺されました。その姉婿ウタフが松前藩に援助を要請に赴いた帰りに病死すると、シャクシャインはそれを松前藩による毒殺とアイヌに伝えたことから、アイヌと和人との抗争へと発展しました。いわゆるシャクシャインの戦いです。
 シャクシャイン勢は一時は国縫(長万部町)まで攻めましたが、のちには劣勢となり、和睦の申し出の口実の元にシャクシャイン等14名は謀殺され、シベチャリのチャシも焼き払われ戦いは終了しました。

・伝説:「アイヌ伝承と砦」(宇田川洋著)
 一族の語るところによれば、シャクシャインは十勝国クンネベツ(黒い川の意味)より此の地に移住し、三人兄弟であって、長兄をシャムクスアイヌ(後世シャクシャインと称す)、次弟をトングスリ、末弟をトンギャマと称した。シャクシャインは体躯巨大容貌魁偉であって、走ること飛鳥の如く、染退(しべちゃり)より登別までを1日で往復したと伝えられる。シャクシャインの居住せる砦の跡は不明であるが、次弟トングスリは現在の不動坂の上の砦に、末弟トンギャマは、入船町金刀比羅神社の砦跡にいたという。
 当時様にの方面より美貌の妖婦オツケニなるものが、松前藩の間諜となって管内アイヌの豪族を訪れ、容色を餌に同族の内情を偵察して、その動静を松前藩に通報していたが、ついに染退に入り来って、シャクシャイン一族の動静を捏造して密告し、松前藩との交戦の誘引をなした。
 松前藩は染退に侵入して城砦に攻め寄せた。この時次弟トングスリは、砦の物見台より押し寄せ来る松前軍勢を見て、その猛威に敵し難さを悟り、一子スオクテと称する嬰児を抱いて納屋に至り、稗撒き用の臼を伏せてその中に庇ひ、長兄シャクシャイン、末弟トンギャマに危急を伝え、城砦の断崖から染退川目掛けて飛び込んだ。シャクシャインは身に着けていた、鹿の皮のカッコロ(銅服)を水中に潜って脱いだ。染退川の畔に進学した松前勢は、水面に鹿の皮のカッコロが突然現れたのを見るや、一斉射撃をした。その隙に、シャクシャインは染退川を潜って海中に出て、静内新冠両軍の界シンヌツ付近の海岸に泳ぎ上って巧みに逃走した。次弟トングスリは、不幸にも松前軍に捕らえられ、シンヌツ付近に於いて竹の鋸を以て惨殺された。シャクシャインとトンギャマの2人の消息は全く不明であった。
 松前軍は隈なく染退城砦を捜査したが、一族は既に遁走して人影は全然なかった。納屋に至り前述の臼の伏せてあるのを目撃はしたが、嬰児がその内にかくしてあるのでは気が付かないで退去した。その後一族の者が嬰児を救い出して養育した。現在シャクシャインの末裔と称する者は、即ちこの二スオクテ(臼の意味)の子孫であると伝えられている。

 シベチャリチャシの河岸段丘を降りたところに「松浦武四郎記念碑」があった。基台の説明板には次のとおり刻まれている。「新ひだか町と松浦武四郎 松浦武四郎は今の三重県松坂氏に生まれ、幕末にアイヌ民族と深い交わりを保ちながら六度にわたって蝦夷地を踏破した。武四郎は、この静内地方には三度訪れて詳細な記録を残した。弘化三年(1845)には海岸沿いに歩き、地形、産物、歴史を記録。安政三年(1856)には新ひだか町の各地の特色に目を向け、安政五年(1858)の調査ではシベチャリ川、門別川、三石川、鳧舞川を遡ってすべてのコタンを訪れ、その地に住むアイヌ民族の名を後世に伝えるとともに、「心情の率直な純朴なことはたとえようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたいと絶賛した。アイヌ民族に導かれて蝦夷地内陸部深くまで踏査した松浦武四郎の百五十冊を超える調査記録は、随所にアイヌ民族が台地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には9800ものアイヌ語地名が収められている。明治二年(1869)、蝦夷地を改称するにあたり、松浦武四郎はその名を「北加伊道」と提案した。これは「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いが込められたものだった。北海道の名付け親、松浦武四郎が新ひだか町を訪れてから百五十年以上が経過したが、我々の祖先と松浦武四郎は絆は今なお燦然と輝いている。我々は新ひだか町のアイヌ民族と松浦武四郎の民族を越えた交流とともになしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖なる地、真歌の丘に記念碑を建立する。2012年5月12日 北海道アイヌ協会 新ひだか支部長 大川勝 同会員一同」

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