苗穂、善俗堂之碑、佐藤孝郷碑

旅ラン

令和4年(2022)11月26日(土)二十四軒~(北1条通)~東橋公園~(国道12号線)~白石小学校~(南郷通)~札幌駅  約14km 1時間55分

二十四軒の古道を探索後、白石小学校の史跡に向かう。北1条通から橋を渡る前、東橋公園に説明板があった。

【苗穂とSL】
 苗穂地区は当時の伏篭川の大きな中洲が耕されてブドウ畑になっていました。その中洲を中心にした広い敷地の中に、明治42年12月国鉄苗穂工場が誕生しました。
 赤レンガの斬新な工場は「苗穂の鉄工場」と呼ばれ、住民にとっても誇らしいものでした。
 現在、JR苗穂工場内には明治末に建てられたレンガ造りの建物が残され、その一つが鉄道技術館として利用されています。
 苗穂工場で最初に造られたSLのD51は、その5分の1模型が豆機関車の呼び名で今も鉄道技術館にあります。

【北1条通り】
 開拓使により旧札幌神社(現:北海道神宮)への参道としてつくられた北1条通は、北原白秋が「この道」で、「この道は、いつかきた道 ああそうだよ アカシアの花が咲いている」とうたった通りです。
 6月の札幌祭の頃に、白い花を咲かせ街中に強い香を放つアカシアの花は、私たちに初夏の訪れを告げてくれます。

【苗穂のまち】
 明治43年に苗穂駅ができたことで、この辺は活気があふれるようになりました。
 北3条通りには、市電は走り、停留所前の商店の軒先に置かれた腰かけには、たくさんの人々が立ち寄り、もっきり屋さんは仕事を終えて酒を飲む男たちで賑わっていました。
 苗穂には、昔の面影を見せる建物が多くあります。それらの建物は今も大切に利用され、訪れる人々に歴史を感じさせてくれます。

 東橋を渡り、国道12号線をひたすら走り、白石小学校に到着すると、説明板が二つあった。

【善俗堂之碑】
 1971(明治四)年11月中旬(新暦12月松)にこの地に移り住んだ片倉家の元家臣たちの手によって、早くも翌年の3月6日(新暦4月13日)に子どもの教育のための学問所として「善俗堂」が開かれました。
 善俗堂の名称は、漢籍に長じた隣の碑の開拓使貫属取締佐藤孝郷が、宋史の帳載傳から善俗、つまり「道徳にかなった世のならわし」の語を引用して命名したと考えられています。
 善俗堂の当所位置はここより国道沿い東方350メートル余りのところであり、ここより国道沿い660m余りの地への移転を経て1882(明治15)年に此の地に移り、現今の札幌市立白石小学校として継承されています。
 ここにこのまち白石の教育の原点を讃え銘記するものといたします。
 2021年12月 

【佐藤孝郷碑】
 私たちのまち白石区の前身である白石村は、戊辰戦争に敗れて北海道に移住した仙台藩白石領(現在の宮城県白石市)片倉家の家臣たちによって、明治四(一八七一)年、初めて開拓の鍬が下されました。 この人々を統率したのが、開拓使貫属取締となった二十一歳の佐藤孝郷です。 孝郷は、嘉永三(一八五〇)年、片倉家の家老の家に生まれました。敗戦によって路頭に迷うこととなった白石領の人々は、乗船した咸臨丸の座礁、厳寒の中での小屋作り、原始林の開墾など言語に絶する幾多の苦難を乗り越えて最月寒の地に入植を果たし、現在の白石区の礎を築いたのです。明治五(一八七二)年には、厳しい生活の中にもかかわらず、後に白石小学校となる善俗堂学問所を開き、教育にも力を注ぎました。 孝郷は大正十一(一九二二)年、東京で生涯を終え、今は故郷の地宮城県白石市に眠っています。

 碑の背面には、 「今日の白石区の発展は、仙台藩白石領の人々を初めとした先人たちの労苦の賜物である。 この碑は、白石開拓の歴史を後世に伝承するとともに、人情味にあふれる地域づくりと心豊かな青少年の育成を願い、白石区ふるさと会設立三十年を記念して建立するものである。 平成十七年七月 白石区ふるさと会 白石の歴史を語る会 白石区」 と刻まれた黒御影の石板がはめ込まれています。

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