三田台古墳・亀塚

古墳・ストーンサークル

東京都(泉岳寺~三田台公園~亀塚~大門)

 令和2年(2020)7月9日(木)4.7km 30分

 出張で夕方時間ができたので史跡探訪ランニングに。宿泊先の大門から電車に乗って泉岳寺駅まで行き、そこから走る。走り始めるとすぐに泉岳寺前に伊皿子坂があった。
 由来は、「中国人井伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう」だそうだ。
 三田台公園への道は以前走ったことがあるが、三田台公園はスルーしたような気がする。三田台公園は古代の住居があったようだ。

【説明板から転載】三田台公園
 昭和53年縄文、古墳時代の住居跡と貝塚断層が港区三田4丁目19番で発掘されました。遺跡からは、江戸時代の犬猫の墓石、供養塔、古墳・奈良時代・平安時代の竪穴住居跡、弥生時代中期の方形周溝墓、縄文時代の後期の貝塚と竪穴住居跡が順に重なって発見されました。これを永く保存するとともに、その当時の生活環境を身近に理解していくただめ、これらを再現しました。
【転載終了】

 三田台公園をあとにするとすぐに亀塚があった。ここも以前走ったと思うが、気が付かなかった。亀塚は古墳かどうかは断定できないそうだが、古代から周囲に集落跡があったそうで、平安時代の更級日記にも登場する史跡だ。
【転載はじめ】港区歴史観光ガイドブック
 現状で直径約30m、高さ約4mの円形の塚で、古墳の可能性も指摘されていますが、断定はできていません。周辺の地域からは古代の住居跡や貝塚が発見されており、公園内からも弥生時代の集落跡が発掘されました。江戸時代に入るとここは上野沼田藩土岐家の下屋敷になりました。山頂には寛延3年(1750)に藩主頼おきが建てた亀山碑が残されています。亀塚と済海寺の一帯は、平安時代に菅原孝標女が記した「更級日記」に登場する竹芝寺の跡地といわれており、亀山碑にもこのことが刻まれています。また、文明年間(1469~87)には江戸城の城主太田道灌がここに斥候を置いたとされています。亀塚の由来や亀山碑については江戸時代後期の地誌「江戸名所図会」にも記されていますので、この頃には広く知られた存在であったようです。
【転載終了】

 短時間であったが、都会の中の史跡を堪能できた。

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