中標津町開陽地区・丸山

山登り

中標津町(330アリーナ~開陽地区往復、丸山45.5m)

 令和2年(2020)2月9日(日) 15.0km 1時間29分
 
 久々に中標津十二楽走の練習会に参加。今日の中標津の9時時点の気温マイナス12度、西北西の風・風速3m。いつも通りハーフマラソンコースを行くが、向かい風で顔がやたらと寒いというか痛い。通常は開陽市街を過ぎてハーフマラソンコースに行くが、余りにも寒くて痛いので、開陽小学校跡地で引き返す。帰りは追い風で下りで快適だ。そして日が差すと暑いくらいに。しかしペースがやたら早くなり、最後には1km4分台になり、最後には皆に置いて行かれた。

 今日の第二の目的地は、役場の南側にある丸山の登山である。山といっても45.5mで登山開始から1分程度で登頂。山頂には木が多く展望はイマイチ。登りは西側の登山道から登り、山頂から東側の方に縦走して降りると中標津町資料館であった。今日の第3の目的地はこの資料館である。
 入ってみると、開拓に使われた農機具や戦争当時の服、中標津の過去の地図などが展示されていたが、なかでも旧北海道農事試験場根室支場庁舎の説明板があり、初代支場長「松野傳(つとう)」氏の功績などが書かれていた。特に現在の試験場の旧庁舎があったから中標津が発展したというのは驚きだ。

 松野傳(つとう)
明治21年12月 青森県弘前市にて生誕
大正5年  北海道大学予科入学
大正11年 北海道大学農学科卒業
同年    北海道農事試験場に入り、種芸部農具係を担当
昭和2年  北海道農事試験場根室支場初代場長就任
昭和7年  同場長退任

 その後、十勝拓殖実習場長、道庁拓殖部植民課(勅任技師)を経たのち、満州に渡り奉天農業大学農学部長を兼務、次いで研究部部長を専任。
 戦後、岩手県六原農場長、農林省開拓研究所東北支所を経て、青森県副知事、東北女子短大学長を歴任。
昭和32年10月25日 63歳で逝去。

【第2の帯広】
 松野支場長が、最初に中標津へ足を踏み入れた当時の様子について、自信の手記である「プラウ雑話」の中で「原野の真只中に位置し、場鉄と称する殖民軌道があるかぎりである。戸数28戸、電灯もなければ医者もなし、いや驚くべき原始的部落である」と述べています。
 このような原野が広がる中で、鉄筋コンクリート造の建築物を建てることは当時の都会でも珍しく、賛否両論があったが、松野支場長は「移住者に安心感をもたせる」ことを考えて採用しました。このことが町の商工業を形成するきっかけとなりました。
 当時、根室支場を開設するには、大規模な資材と人材を必要とし、近隣市町村や全道から様々な職業の人々が中標津に集まるようになり、旧庁舎が竣工した昭和2年以降、急激な人口の増加をみるようになりました。
 さらに、昭和2年に「標津羊羹」の製造者である長谷川菓子舗の創業者が、標津から中標津へ移住したり、「小澤金物店」の創業者も、当時の新聞記者に中標津が「第二の根室」と謳われているの見て、帯広から中標津に移住し、開業しています。
 このように、原野を見渡す高台にそびえる近代建築物に、移住者が将来性を感じ、各地方から中標津に移り住み、東1条通りと中央通りを中心に、旅館業や薬局、料亭などが軒を連ね中標津市街地が形成されました。

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