大高城等

城郭・チャシ

令和4年(2022)3月12日(土)愛知県名古屋市大高町 約7.3km 5時50分頃出発、1時間8分

 八幡社、大高城跡、丸根砦、鷲頭砦

 愛知県出張中、朝、根性で5時に起きて名古屋駅からJRで大高に向かう。今日の目的地は、大高城跡、丸根砦、鷲頭砦である。この史跡は戦国時代の小説によく出てくるので一度訪問したかった。
 大高駅に降り立つとまだ暗いが、走り始めることにする。駅前に史蹟散策路の案内図があった。大高城址と両砦もコースに入っているので、そのコースに沿って走り始める。
 走り始めてすぐ、八幡社に到着。

【八幡社の概要】
 祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫。治承4年(1180年)源頼朝が鶴ヶ岡八幡宮のご分霊を勧請、相模国小林郷丸山にご鎮座、その後大高城主花井備中の守が現在地に祀る。文明年間(1469~1486)に水野和泉守が城主となり、その後天正年間に豊臣氏の所有に。徳川家康が桶狭間合戦(永禄三年、1560)の前に、今川義元の命を受け兵糧が欠乏していた大高城(当時今川方)に兵糧入れを成功させたことは有名。

 またしばらく走るとカギ形場の通路に差し掛かった「辻」である。

【辻の秋葉社】
 こらいこのあたりを「辻」と呼び、大高の中心であり、昔の大高城の城下町のままカギ形になっており、江戸時代には市が開かれ、幕府の命を知らせる高札場があった。この秋葉社は18世紀から19世紀初めころに創建され、祭神は火之迦具土神。

 辻を後にすると歴史ある酒蔵「神の井」酒造が見えてきた。そして、左側の小高い丘である「大高城」を見つけることができた。お城がある丘の頂上にはあっという間に登ることができた。石垣などの遺構は残っておらず、小さな社があるのみだった。

【大高城】
 知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵上に築かれた東西106m、南北32mの山城である。室町時代の永正年間(1504~1521)に花井備中守によって築かれた。戦国時代の天文弘治年間(1532~1558)の頃には水野忠氏父子が居城していたが、はじめ今川氏に属し、後に織田氏に付いたため今川方の鳴海城主山口左馬之助に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照が入った。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いのときに、松平元康(徳川家康)が織田方の包囲の中を兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。元康は義元が討たれ、今川方が敗走するまでいて、今川方撤退後には父祖の城である岡崎城に入った。大高城は戦略上の価値を失い廃城となったが、元和2年(1616)尾張藩家老志水忠宗が城跡に館を構えたが、明治3年に廃止された。現在は本丸と二の丸とこれを分ける内堀が残っているが、外堀土塁などは安全上の理由から改変され、昔の面影は薄い。

 その後高速道路をくぐって、森の中の小高い丘を登ると「氷上姉子神社」の元屋敷だった。氷上姉子神社の社は参拝を忘れた。
 その後、JR線の反対側の小高い丘、丸根砦に向かう。丸根砦は小高い住宅地の中の森の中にあった。

【丸根砦】
 大高城が今川義元の手に落ちた後、織田信長によって大高城を包囲するように築かれた砦の一つで、永禄2年(1559)、大高城の東側約800m、鳴海から伸びる丘陵の先端に築かれた。当時の今川方の基地である豊明の沓掛城から大高城への支援路を見下ろす位置にあり、現況は東西36m、南北28mの砦の間に幅3.6mの外堀をめぐらしている。桶狭間の戦いのときには、佐久間盛重を将とした織田方が立てこもったが、大高城への兵糧入れを命ぜられた松平元康が鉄砲を用いて攻撃し、激戦のあと守備側は全滅したといわれる。

 丸根砦から高台の住宅地をしばらく走り、大高駅のすぐ近くの高台が鷲頭砦だった。

【鷲頭砦】
 大高城の北東約700mの丘陵上に築かれた砦で、大高城の今川勢を牽制するために織田方によって永禄2年に造られた。丸根砦とともに大高城を頂点とするこの鷲頭砦は、二等辺三角形の底辺の両端に位置している。また大高と鳴海を結ぶ交通路を押さえる位置にあり、規模は東西25m、南北27mあったという。永禄3年(1590)5月19日、桶狭間の戦いの緒戦には飯尾定宗らが立てこもり、今川の重臣朝比奈泰能の軍勢に攻め立てられ全滅したといわれる。

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