恵庭森林鉄道・カリンバ遺跡・恵庭地蔵尊・船着場跡・恵庭神社遥拝所

その他遺跡

平成27年(2015)6月21日(日) 21.73km 3時間26分(8時半頃スタート)

恵庭駅~森林鉄道跡~漁川河畔~カリンバ遺跡~上山口地区~漁太~林田~北広島駅  

 昨日は、三男所属サッカー少年団と父子サッカーに参加。頑張って3セットも出て、サッカー素人なので、無駄にピッチ内をダッシュしまくってしまい、今日は筋肉痛の嵐だが、来週は奥尻ムーンライトマラソン(フル)を控えているので、ちょっと無理をしてLSD(ロングスローディスタンス)に出かけることに。
 恵庭市役所ホームページで「恵庭歴史散策」のページを見つけたので、走りながら訪問することに。それにしても、今日は快晴の絶好のランニング日和。遠くには樽前山、風不死岳、恵庭岳、夕張岳、手稲山、無意根山、札幌岳、空沼岳が一望に見渡せた。
http://www.city.eniwa.hokkaido.jp/www/contents/1370229272121/index.html

 恵庭までJRで行き、まずは森林鉄道跡を目指すが、どうにもよくわからない。道行く人に聞いてみると、真ん中に土盛り(恐らく線路跡)がある細長い公園みたいなところだが、よくわからないそうだ。その方角に走ると、その細長い公園みたいところ、おそらく森林鉄道跡か。ネットで検索し引用すると次のとおり。

(引用開始)
 恵庭森林鉄道は、二路線36.4kmのナローゲージ。恵庭駅‐漁川上流俗称「滝の上」間29.7kmの本線のうち13.6kmは、王子製紙が漁川発電所建設のため昭和4年に敷設した作業軌道。札幌地方帝室林野局が6年に購入、4次にわたり延長した。北海道唯一のインクライン(つるべ式索道鉄道)が有名。廃止は30年11月。恵庭市の漁川流域は森林資源に恵まれ、DL牽引の森林鉄道が発達した。最終地はJR恵庭駅にあり、ここの土場に大量の木材が積まれた。
(引用終了)

 史跡の看板も何もなく、史跡見学としては不完全燃焼ながら次のカリンバ遺跡を目指す。漁川河畔を下り、北海道文教大学横のカリンバ遺跡へ。何のことはないただの原っぱだが、面積約3,000平方メートルの発掘区域から多数の土坑が発見、そのなかに漆塗りの装身具や玉が多数副葬された縄文時代後期(約3,000年前)の土坑墓群が含まれていたそうだ。漆塗りの櫛、頭飾り、耳飾り、腕輪、腰飾り帯などの副葬品が大量に出土したそう。
 
 次に、旧恵庭村村役場跡と恵庭村道路元標を目指すも、見つけることができなかったが、恵庭中央地区のお地蔵さんと恵庭神社を拝することができた。
 地蔵堂には次の通り記載されていました。

(転載)
 この地蔵尊は、昭和4年に先人たちが厳しい開拓時代を経て農業基礎も経済状態も安定してきたことから、婦人たちも含めた地域の皆さん方によって、おおむね恵庭神社管内に居住する人々の守護尊として、五穀豊穣、家内安全などを願って浄財を募り労力奉仕などによって建立。その後昭和26年に天災によって尊舎が破損し、前面道路の南側50mほど離れていたものを、このちに移転復元したものです。
 建立以来、毎年8月24日を例祭日とし、戦後は中恵庭町内会が継承してまいりましたが、近年に至り、建立爾来68年余を経た堂舎が腐食、破損も甚だしく改修についての意向が高まり、町内会の総意によって、寄附を募り平成9年、宮崎組の施工によって完成したものであります。
(転載終了)

 さらに川を下り、松橋小学校跡地の公園を過ぎると、船着場跡地である。ここは漁川と千歳川が合流するところで、“えにわみなと”と呼ばれていたそうだ。地図を見ると千歳川を渡ると長沼町である。おもえば遠くに来たもんだと思う。

 ここがイザリブトやシママップに向かう拠点だったそう。えにわと言う地名は明治39年になって正式に使用されるので、昔はシママップ・イザリなどの地名として呼ばれていた。
 この“えにわみなと”は江戸時代から昭和時代のはじめまでありり、蝦夷地の産物が運び出され、本州から人や物資が入ってくる恵庭の玄関であったそうだ。

 橋を渡ると、「恵庭神社遥拝所」。遥拝とは遠く隔たった神様を拝することであるが、ネット情報によると昔は江戸時代から明治にかけ、弁天社、稲荷神社が祀られ、大正13年に現在の恵庭神社に合祀されたあとは、遥拝所になったそうである。

 このあとは、畑の中を果てしなく真っ直ぐ北広島駅に向う。北広島からはJRで札幌に向かう。

 好天の中、札幌近郊にもかかわらず、開拓の歴史を感じるランニングであった。

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