様似参道

その他旧街道・旧道

平成27年(2015)5月5日(火) 行き:幌満→冬島、帰り:国道

連休の最後の2日、個人行動できるお休みをもらえたので、日高へ行く。かねてから行きたかった様似山道にチャレンジすることに。朝5:00に札幌を出発し、8:30頃に様似町幌満に到着。元幌満小学校跡はコミュニティセンターになっており、駐車するのは自分だけだ。
 ちなみに、様似山道とは、掲示板よると次のとおり。

(転載はじめ)
 千島列島を伝って南下を続けるロシアの脅威に備えるため、江戸幕府は1799(寛政11)年に東蝦夷地を幕府直轄領とし北方警備と道路開削にのりだしました。この年シャマニ会所を開いた大河内善兵衛政寿は、日高山脈の南端のアポイ岳が海にせり出す交通の難所であった様似町冬島から幌満間の山道開削を、中村小市郎と最上徳内にそれぞれ指導させわずか一年足らずで完成させました。このシャマニ山道とサルル山道が北海道の歴史を飾る最初の官営道路です。三里弱のシャマニ山道中には、コトニ小休所が設けられ、明治6年には旅人の便宜を図るの旅籠「原田宿」が建てられました。
 昭和2年に山道下の海岸道路が完成するとシャマニ山道は自然に廃道となり、この山道は次第に廃れ人々の記憶からも忘れ去られていきましたが、30年以上前に地元有志によって山道跡が確認され、現在は延長約7km、行程約4時間のフットパスコースとして親しまれています。コースはその名のとおり山道で、何度も渡渉を繰り返しますが、広葉樹の森林浴が楽しめ、途中には耶馬渓を展望できる場所や明治初期にあった旅籠屋の跡などもあります。道中は看板のほか、樹木にピンクテープや赤札などがつけられていますので、それを目印に進んでください。
(転載終了)

 スタートしてすぐに和助地蔵尊にお参りする。ここは、様似山道の開削に尽力した斎藤和助を祀る地蔵尊。孫の一人は日本競馬騎手の父と呼ばれた函館大経だそうだ。
 幌満橋の下をくぐって川を遡る。川は雪解け水で増水しており、ちょっと危険。しかしたいした距離もなく山道東口に到着し、登り始める。しかし、山道といっても単なる沢登りで、渡河を繰り返しながら高度を上昇する。紫の花が綺麗だ。高度を結構上げて今度は、稜線沿いに高度を上げると台地の林の中を走る。
 大地をしばらく走ると今度はまた高度を下げ始め、また沢に入る。ここは最も深い沢でロープにつかまり経吊りながら進む。この道は馬が通れたのだろうかと考えながら進む。沢を渡り、また尾根を登り、尾根の上の台地は日高耶麻渓の上だ。展望台があり、断崖絶壁と海岸線の絶景が広がる。
 そこからまた、沢を横切り、次の台地上に原田宿跡がある。こんな山奥に旅籠があったとは驚きだ。

(掲示板から転載)
 明治6年浦河開拓使出張所は山道中が非常に危険であることから、ここを護る人物を探していましたが、これに応じたのが目名(静内)で開拓の鍬を振っていた、旧淡路稲田藩士の原田安太郎夫妻でした。原田は四間×七間の家を建て、宿を提供したり相談役になったりして、明治18年までの12年間、山道を通る人々の安全を守りました。
(転載終了)

 ここからはあまり危険なところがない。しかし、誰にも会わず、熊が心配だが、熊の糞はない。その代わりに鹿の糞が多数ある。段々高度を下げていき、昆布干し場に差し掛かる。ここは昔、コトニ小休所というところだったようだ。

(掲示板から転載)
 コトニは、様似町史では「コトネ(低い)イ(ところ)」と分解し、「低いところの意」としていますが、幕末の探検家・松浦武四郎は「東蝦夷日誌」で「昔、コトといふ胡女ここにて死せしが、その墓より、木芽萌出でしをもって名付けし」と記しています。 
 現在は、昆布干し場になっていますが、この見晴らしの良いこの場所には、休息のための小屋が建っていて、往来者はここでたき火をしたり、時には仮眠もしたそうです。
 山道東口(幌満)から来た人は、鬱蒼とした山中を熊や鹿に脅かされながら通ってきて、シャマニ(様似)を望むここでようやく安心し、山道西口(冬島)から来た人は、シャマニもここで見納めかと嘆いたといわれるなど、コトニは悲喜こもごもが多く残された場所でした。なお、このすぐ西の東冬島トンネルのあたりは、「テレケ(跳ねる)ウシ(いつでも)」といい、山道下最大の難所でした。
(転載終了)

 ここで国道に出ることができるが、もう一つ尾根を登り下りして、山道歩きを終了。帰りは国道を走って帰る。山道は2時間もかかったのに、帰りの国道は30分強で着いてしまった。
 その後、三石温泉でひとっプロ浴びた後、今日の宿泊地、静内に向かう。

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