日光街道11(大沢宿~今市宿)

旅ラン

令和5年(2023)3月20日(月)その3:大沢宿~(7.9km)~今市宿

【全体日程】スタート10時頃 歩いた距離20.7km 4時間50分徳次郎宿~(9.4km)~大沢宿~(7.9km)~今市宿

大沢宿は見どころがない。しかし、大沢小学校に二宮金次郎の像が建っていた。普通の小学校と違うのは、「至誠、勤労、分度、推譲」が彫られていたことだ。
 大沢宿を過ぎると杉並木であり、祠があった。少し歩くと通行止めになり、バイパスの方を歩かざるをえなくなった。
 バイパスは面白みがなく、七本桜の歩道橋を通る。普通の郊外の市街地のようで面白みはない。東武下今市駅に到着。実はここでどこが旧道かわからなくなり、ウロウロ歩いていると今市追分地蔵尊に到着。ここから旧日光街道と例幣使街道が分岐しているのがわかり、途中で道を間違っていたことがわかった。ここで戻る元気もなく、JR今市駅から今日の宿がある日光に向かう。

【追分地蔵尊】(ネットから借用)
 日光から宇都宮を経由して江戸に向かう御成り街道(日光街道)と、鹿沼を経由しで 上州倉賀野で中仙道に抜け京都に向かう勅使の通った「例幣使街道」の分かれ道に 鎮座する、この追分地蔵尊は、丸彫りの坐像の石地蔵では、東日本有数の巨像で、 北関東では一番だそうです。この地蔵尊は御成り街道と例弊使街道の分岐点に 祀られている事から、追分地蔵尊と名付けられています。お地蔵様には多くの伝説が残されており、日光市の文化財に指定されています。 江戸時代初期に石工が、大谷川(だいやがわ)の川原の砂に埋まっていた石を 割ろうとしてノミを打ち込んだところ、石から血がにじみ出てきたそうです。 驚いた石工が掘り起こしてみると、この大きなお地蔵様でした。それを村人達が運んで行くと、現在地で動かなくなったので、 ここに安置したそうですが、 後に如来寺という由緒あるお寺に移したところ、お地蔵様の泣き声が聞こえる様になった そうです。
  村人達は「このお地蔵様は日光の含満ヶ渕の親地蔵で、洪水で流されて来た のだろう」と、日光の見える元の追分に戻して、元の日光に向けてここに安置したそうです。 ふつうは地蔵の手印は錫杖と宝珠であるが、この地蔵尊は密教系の胎蔵界大日如来の 法界定印という手印を結んでいるそうです。 制作年代は明らかではないが、享保13年(1728)徳川8代将軍吉宗の日光社参の時に、 すでに現在地にあったと記録が残されているそうですので、このお地蔵様はそれ以前の 大きな洪水で、流されて来たのでしょう。日光含満ヶ渕の並び地蔵は、明治35年(1902) の大洪水でも、親地蔵と他の地蔵の幾つかが流された、との記録が残っているそうです。現在は日光連山と大谷川の治水工事が進み、大きな洪水は起こりませんが、私が幼い頃は 大雨や台風の後には、広い河川一杯の洪水になり、当時川からは1キロも離れた所にあった 我が家でも、大きな水音と「ガランガラン」と大きな石が流れる音で、怖くて眠れぬほどでした。 幼い頃に父から聴いた話ですが、洪水で日光の神橋が流されて来た事も有ったそうです。

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