本別町(軍馬鎮魂碑)

戦跡・古戦場

令和5年(2023)9月10日(日) 仙美里ヶ丘~追名牛~軍馬鎮魂碑 10㎞ 1時間31分

午前中の水泳大会の後、午後は時間ができたので、近隣をランニング。高速道路沿いの追名牛を通って、訪問したことがない石碑を訪問。

【幕内小太郎翁の碑】・・・「従四位勲三等中川健蔵謹書」、裏面は本別町五十年史によると次のとおり刻まれていた。「開拓功労、幕内小太郎之碑」(題字、従四位勲三等、中川建蔵、碑文 川西支庁長那須正夫)の碑文には次の如く刻まれている。
「幕内小太郎ハ安政六年十一月、福島県相馬郡飯里村柏崎ニ生ル。資性温厚ニシテ篤実、夙に本道拓殖ノ壮図ニ志シ、明治三十二年土地ノ貸付ヲ受クルヤ翌年三月一家ヲ携ヘテ十勝国本別村ニキタリ、同年小作人八十七戸ヲ移住セシム。当時十勝ハ未ダ鉄路ノ便ナク、人煙殆ンド稀ニシテ文明ノ恵沢ニ浴セズ至ル処樹木鬱蒼トシテ天日為ニ暗くク、荊棘ハ地ヲ多ヒ、殊ニ熊羆出没シテ拓殖ノ困難実ニ名状スベカラザルモノアリキト云フ、然ルニ君ハ堅忍不抜克ク辛苦ニ耐エ缼乏ト戦ヒ、拮据励精茲ニ二十六星霜、今日ノ成功ヲ見ルニ至レリ。是偏ニ移住者ノ模範タルノミナラズ、真ニ懦夫ヲシテ起タシムルノ慨アリト謂フベシ君ハ又極メテ公共ノ念ニ富ミ即チ美里別信用購買組合ヲ組織スル率先資金二萬円ヲ出シ其ノ基礎ヲ鞏固ナラシメ、或ハ美里別川東橋梁ノ架設ニ力ヲ致シテ交通ノ便ヲ図リ、或ハ女子教育機関ノ乏シキヲ歎ジ私財二千金ヲ寄附シ、以テ精華女学校ヲ設立シ、又基本金二千五百円ヲ投ジテ中村神社ノ創設ニ盡瘁セル等、奉仕的事業挙ゲテ数フベカラズ、其ノ他戸長役場時代ニアリテハ村総代トナリ、次イデ町村制施行セラルルヤ村会議員ニ選バレ、専心全村ノ振興ニ寄与シ其ノ效績顕著ナル衆ノ認ムル処タリ。村民誰カ其ノ偉徳ヲ称ヘザルモノアラヌヤ。茲ニ村長天野剛氏主唱ト為リ、部落有志相図リ建碑ノ挙アリ、以テ君ガ功業ノ一端ヲ勒ス。大正十五年六月 川西支庁長正六位勲六等 那須正夫

 次に、道路沿いに「安らかに眠る日本で唯一の軍馬鎮魂碑」の看板があり、「牛魂碑」と軍馬鎮魂碑があった。

【軍馬鎮魂碑】・・・表面には「鎮魂」「本別町長矢野幸雄書」と刻まれ、右下に「軍馬碑」と刻まれている。基台には「馬魂不滅 中国大陸に、怨念こもる痛恨のいななきを残し、この世を去った軍馬等。その姿は草むす屍か哀れの限りなり。かくして、昇天した「馬魂」は今いずこ。依るべきなき異国の空をさまよい続けるも、供養する人もなし。よって、この地、この場所を選び、安らかなる成仏永眠を記念して碑を捧げん。願わくば、天馬千里を駆け、吾が招魂の祈りに応え、迷わず来たりて、墓碑のもとに集わんことを。昭和六十三年十月吉日建立 森弘 楠茂音吉 泉野健」。側面には「もの云えぬ、戦没軍馬70万が、さがし求めた、「鎮魂軍馬之碑」こそ安らぎの夢路をさそう”成仏の館”だった。更に又、今次「イラク戦争」で地球をとりまく国連加盟の人類が、史上初の大合唱、こぞって”戦争反対”をさけんだその数は延べ1,000万人を越えたと云う。依面「人馬共通の同根願望」故。この碑を以て、”反戦平和の礎”なりと決め内外に宣言する。2003.6 馬魂不滅の友 森弘」

 今は亡き軍馬に手を合わせ、家に帰る。

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