札幌市拓北の史跡

旅ラン

令和2(2020)年4月19日(日)
〇札幌市(あいの里教育大駅~北海道医療大学横~トンネウス沼~拓北高校~茨戸川沿~北海道教育大学付属小中学校~仙人庚申塚~藍の道~藍栽培ゆかりの地~拓北小学校~拓北駅)8.9km 1時間16分
〇拓北駅~百合が原公園~新琴似~琴似~宮の森 13.7km 1時間54分

 4月の異動・引っ越しでしばらく吉方・史跡巡りランニングができていなかった。本日は自宅から北東方面の走ったことがない「あいの里」のフットパスを走ってみることに。
 八軒駅からJR学園都市線に乗る。車両の中で乗っているのは自分だけだ。外出自粛要請が見事に効いている。あいの里教育大駅に降り走り始める。駅前に「藍と愛のまち あいの里」の説明板があった。以下転載する。
なお、長文注意(笑)。

【転載はじめ】
 明治15年、北の大地でアメリカ式の大規模農業を夢見た一人の男がこの地に入植した。徳島県出身の開拓者、滝本五郎である。彼は故郷の特産品である藍の大々的な栽培に成功し、篠路興産社という会社組織を設立。また、染の原料として生産された藍王が内国勧業博覧会で一等有功賞を受賞するなど、藍は当時の北海道産業のホープへと成長していった。その後、化学染料に押されて姿を消した藍。今は「藍栽培ゆかりの地」として、いくつかの記念碑がペケレット湖近くに名残をとどめている。「あいの里」は、このような藍栽培の歴史と人々に愛される街への願いを込めてつけられたものである。
【転載終了】
 
 ここから、スーパーなどのアーケード街を通り、北海道医療大学の横を北上しあいの里公園の中を走る。その公園の近くの拓北会館には、「あいの里開拓記念碑」があり、この地の開拓の歴史が綴られていた。

【転載はじめ】あいの里開拓記念碑
 此の地域一帯の開拓は明治15年畑作藍の耕作に始まる民間資本の投入による大規模組織的開拓の嚆矢であった。先人たちは頻発する天災と挫折に耐え此の地の農業を次第に安定させのち雑穀主体有名馬産地としての歩程を辿る大正末期には造田が開始され昭和20年代には水田主作が確立。同40年篠路地区隋一の米生産地となった。昭和45年に始まる稲作生産調整により大巾休耕転作の止むなきに至り営農の指標を定め難き折も石狩湾新港に呼応する宅地開発の札幌市市長構想を知り昭和48年5月地区有志相謀り同年7月47名を以て拓北宅地開発期成会を設立。日本住宅都市整備公団と折衝に入った。大規模にとの要望に応え不賛同地主を積極的に勧誘。最終76名の会員となる昭和47年12月25日土地区画整理事業として契約成立。同年54年着工工事施工は北海道住宅供給公社である開拓当時の故事にちなみ「あいの里」と命名された。茫漠たる原始の地に開拓の鍬が打ち下ろされて百星霜余かつて農地として開発された此の地が今3万有余の人口を収容する大住宅地に変容する時の流れを思い昔日の感に絶えず此の地の農業の終焉に当たり先人の労苦を偲び顕彰し往時の歩程を後世に伝えんと此の碑を建立する。昭和57年11月2日 吉成数也 書
【転載終了】
 
 そこからしばらく走るとあいの里公園内に入る。今は枯れているが、小さい水路が通っている。しばらく走るとトンネウス沼と拓北高校にさしかかり、そこから左折して茨戸川沿いに走り、北海道教育大学付属小中学校の外側を通り、畑と住宅地の間を走ると、「仙人庚申塚」があった。庚申塚は内地を走るとよく見かけるが、北海道では珍しい。

【転載はじめ】 仙人庚申塚
 この石像は明治28年に建立され、山岳信仰の開祖といわれる役行者をかたどっている.。右手に錫杖、左手は煩悩悪霊を打ち砕く、金剛杵をもつ。台座には右から「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれている。これは何事もつつしみ深くあらねばならないという庚申信仰の教えを表している。仙人の姿をした庚申塚はめずらしく民族学上も貴重なものである。
【転載終了】
 
 庚申塚から西に進むと、田園地帯に入り、古いレンガ造りの農家住宅も出てきた。この道は「藍ロード」という道であり、さらに西に進むと馬頭観世音像があった。この馬頭観音も開拓の歴史と密接に絡んでいる。

【転載はじめ】 興産社の馬頭観世音
 藍の栽培と製造を行った興産社農場は、安価な輸入染料によって経営に行き詰まったことから、事業家の谷仙吉が農場を譲り受けて谷農場となった。谷農場の耕作にとってかけがえのない農耕馬や繁殖馬の健康を願って、同農場の18名によって明治42年にこの馬頭観世音が建立された。
【転載終了】

 そこから少し進むと、藍の地に関する記念碑が数多く建立されていた。開拓の碑に関する内容は前述の開拓の記念碑と同内容で、省略し、ここでは重複していない碑の内容を転載する。

【転載はじめ】宮西頼母歌碑
 「チモシーの禾穂(にほ)つみ終えし土手のうへ石狩川は波立ちて見ゆ」。昭和43年の歌会始の詠進歌に入選した歌である。「チモシー」とは、牧草の一種、禾穂(にほ)とは、牧草を円錐形に高く積み上げたものである。石狩川の近くで農業に従事しながら作歌活動を続けてきた歌人であり、北の厳しい自然と台地に挑む農耕歌を多く発表している。
【転載終了】

【転載はじめ】報徳碑・滝本五郎翁
 興産社社長の滝本五郎は、徳島(阿波)の生まれで、幼少の頃から聡明であった。開拓精神に富み、明治14年に弟の阿部興人・原文吉・近藤庫太郎などと走尾談志手、札幌郡篠路(拓北)の地を開墾したがその17年間は困難を極めた。しかし、粘り強く頑張りついに690町を開拓し、農民150人を入植させる偉業を達成した。明治23年には藍の製造で全国1等賞を受賞し、さらに明治29年藍綬褒章を受章したが、明治32年10月9日病のため64歳にて惜しまれ逝去した。その業績に対して次の言葉を送り、その徳を讃えます。
 剛健なり、金銭堅固なり、自ら辛酸をなめ、風雪に耐え、倹約に勤め、慈愛に満ち、鬱蒼たる荒れ地を開き、藍の栽培で国を富ませ、その素晴らしい功績が此の地に永久にとどまることをきねんいたします。功績多大のため、その一端を掲載するのみです。
【転載終了】

 あいの里には何と素晴らしい、開拓者がいたのだろうと感動し、拓北駅に向かう。その後、JRに乗って帰ろうと思ったが、ちょうどよい時間の電車がなく、そのまま家まで走って帰ってしまった。

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