根室拓殖鉄道跡探索(根室交通有磯営業所~(道道根室半島線)~歯舞地区)
【根室駅~友知駅~沖根婦駅~婦羅理駅~歯舞駅】
令和元年5月26日(日) 17.5km 3時間20分
右膝に違和感があり走ることはできるが、大事を取って徒歩により「根室拓殖鉄道」の廃線を探索することに。
今日の経路は「根室拓殖鉄道」であり、我が家から近い根室交通有磯営業所から歯舞間を1929年(昭和4年)から1959年(昭和34年)まで営業されていた軽便鉄道路線で、それを経営していた会社名である。道路事情の劣悪な歯舞~根室間を連絡し、歯舞で収穫されたコンブ等の海産物を輸送する目的で敷設されていた。
日本国内において日本最東端を走っていた鉄道であるが、路線環境は酷寒・積雪のみならず、塩害・脆弱な路盤など極めて過酷で、終始経営は厳しかったそうである。戦後昭和23年以降は、実質歯舞村有志により経営された。1959年(昭和34年)、歯舞村が根室市に合併することを受けて鉄道を廃止し、バス会社に転換し、ほどなく根室交通に合併されたそうである。(ウイキペディアさんから転載した根室拓殖鉄道の機関車(1))
※参考としたページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/根室拓殖鉄道 へのリンク
http://www.hotetu.net/haisen/Hokkaido/120701nemurotakusyokutetudou.html へのリンク
家の近くからスタート地点である当線の旧根室駅(JR駅ではない)、現在は根室交通有磯営業所に歩いていく。道端はつつじの花が綺麗に咲いている(2)。
10分ほどで根室駅(有磯営業所)に到着。「歩鉄の達人」さんによると、根室駅構内の線路配置はループ線で、後に転車台が置かれ、乗客の力も借りて列車の誘導、転車が行われていたそうである。また、旅客ホームは枕木のような角材が積み上げた簡単なものであったそうな。現在は根室交通有磯営業所で、当時の面影はなく、待合室等の事務室とバスが並んでいる(3、4)。
根室高校を通り過ぎ(5)、坂を降りていく途中の車の整備工場のところには、歩鉄の達人さんによると、廃線跡の掘割があったそうだが、よくわからなかった(6)。
坂を降り、湿原の中を歩いていくと気温が下がってきた。しばらく歩くと、レストラン:ボスケットのところの脇道が廃線跡(7)で、その辺が友知駅があったそうだが、痕跡はわからなかった(8)。
また道道をしばらく歩く。廃線は国道から友知の漁港への道の間にあり(9)、その後、友知川沿いに登る(10)。
また、道道を交差して根室ゴルフ場の脇、おそらく旧道道の沿いに(11)を通っていた。根室ゴルフクラブの事務所前(12)から、廃線跡を眺めると周囲の笹原とは違う低い帯状のところが廃線跡なのだろう(13)。
道道に戻り、旧共和小学校前(14)にも乗降場所があったようだが、ここには築堤がはっきり残っていた(15)。
廃線跡は、この後しばらく、道道から離れて内陸の方にある。途中、瑞泉寺さんの当たりが、沖根婦駅だったそうで、お寺への道路が、取付道路だったらしい(16)。お寺から隣の神社方面を眺めると、廃線跡がくっきりと残っていた(17)。
道道に戻り、オキネべ沼のところには築堤や函渠跡がはっきり残っている(18、19)。
その次のヒキウス沼のところにも築堤が残っていた(20)。この沼のところで廃線は道道を横断し、海側に移るが、おそらく廃線跡と見られる道路があった(21)。
ここから高台の平地の道路になるが、右側にはおそらく廃線跡の築堤らしきものが見受けられる(22)。歯舞の市街地に入る前に、廃線は再び内陸に移行するが、その場所は特定できなかった。
内陸に移行後、直ぐに婦羅理駅跡である。今は歯舞新光会館となっている(23)。この地にはかつて雪印乳業の工場もあったそうだ。今でも酪農家が点在するが、かつては今以上に酪農が盛んであったようで、黒澤酉蔵揮毫の乳牛感謝の碑もある(24)。道路向かいは、もう6月だというのに、桜が満開であった(25)。
廃線はここから大きく内陸に移動・北上し、歯舞集落の北側から南下して、また道道を横断して、終着地の歯舞駅となる。歯舞地区の交番前(26)の民家横に南下してくる廃線跡を確認できた(27)。終着地は現在、歯舞診療所(28)となっていた。
なお、内陸にある歯舞中学校近辺にある、廃線跡も探したが、確認できなかった。
到着後は、本日開催されている「歯舞おさかな祭」を訪問し、そのイベントの無料バスで根室市街に帰る。
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