美唄市ラン

山登り

美唄市【美唄市役所~空知神社~(旭通り)~美唄鉄道東明駅舎・機関車~アルテピアッツァ美唄~東明公園~ふるさとの見える丘(約240m)~美唄市役所】

令和3年4月29日(木祝)15.7km 2時間24分

 折角のゴールデンウイークだが、明日から雨なので走りに行く。今日は走ったことがない美唄市へ。市役所に車を停めて走り始めるとすぐそこに空知神社があった。この辺も屯田兵が入植しているが、当時の軍隊の碑が沢山建っている。全ては書ききれないので、概要のみ記す。

【空知神社由緒】
 屯田砲兵隊が配置され明治24年、屯田騎兵隊、工兵の特科隊移住による開村と同時に神社が創祀された。明治27年10月屯田騎兵隊160戸と市街地有志が神社御造営、明治34年9月16日無格社、新社殿落成、明治44年12月28日村社、大正14年2月16日御社殿新社殿落成郷社、昭和8年8月12日県社に列せられる。

【沼貝開拓記念碑】(カタカナはひらがな表記にする。旧字体は新字体に)
 美唄町は明治24年屯田兵特科隊の内騎砲の三兵村設置により創り沼貝村と称す爾来幾星霜人口増大産業興隆自治体確立等著しき発達を来し大正15年6月村名を改め美唄町と称し益々是れが隆盛を期せんとす本町幾百年の後顧みて開村当時の事績を偲ばしめ祖先を崇拝して業を子孫に伝来し以て建国の大精神に合致せしむる事は実に国是の真諦にして我町民の遵由すへきものたるを信ず茲に碑を建ても追って後世に残す
 昭和4年7月 美唄町長櫻井良三撰

 空知神社にはこのほかにも碑がありまた、近くに郷土資料館もあるが、紹介はまたにしよう。美唄駅の北側の旭通を東に向かう。高速道路を横断して二俣のところに来るとお地蔵さんがあった。やはり昔の人は信心深い。旭通から道道に戻り上流に走ると、美唄鉄道東明駅舎「4110形式十輪連結タンク機関車2号」の史跡があった。ここに鉄道があったのだ。思いがけずの発見であり、これだから見知らぬ地の史跡欄はやめられない。

【美唄鉄道東明駅舎「4110形式十輪連結タンク機関車2号」】
 大正3年11月、石狩石炭株式会社によって美唄軽便鉄道が開業され、以後昭和47年三菱美唄炭鉱閉山まで石炭輸送と住民の足として大きな役割を果たしました。この機関車は大正8年11月美唄鉄道の注文により三菱により三菱造船株式会社神戸造船所が製造したもので、原形は国鉄が大正元年ドイツから輸入した4110型で、勾配のきつい美唄鉄道線の地形に合わせ特別に製造されました。

 鉄道跡の横にはサイクリングロードがあるが、今は使用禁止となっている。駅舎後から少し上流に走ると、アルテピアッツァ美唄だった。旧栄小学校跡地に安田侃の彫刻が自然の中に飾られている。流線型で美しいが、こうした意味があるのか、ないのかわからないものを手間暇かけてつくる芸術家はある意味素晴らしいと思う。
 
 アルテピアッツァ美唄でしばらく探索後、帰りは東明公園へ。コロナ禍で子供連れの家族がやたらと来ている。自分は車が通れない山の方の舗装道路を走ることに。すぐ着くかと思ったが、頂上に中々着かない。何とか喘ぎながら展望台に到着。空知平野や樺戸山地が一望できる。しかし残念なのは、この展望台が頂上でないことである。頂上方面にはピンクテープがあったが、笹藪で行くことができない。今度積雪期に訪問しよう。

 東明公園の麓には「拓」碑があった。横の碑文には、「硝煙未だ漂う戦いのあと食糧増産の使命感に燃えて不毛の原野に挑む 風雪の中三十年の年輪を刻み 今ようやくにして豊穣の秋を見る 当時を偲んで感無量 碑を建て 拓と篆しパイオニア精神を後世に伝う 昭和五十三年七月 美唄市農業協同組合 組合長理事 鈴木喜藏」と刻まれていた。

 東明公園を後にし、市街地に戻る。市街地には開拓時代の建物などがたくさんある。今回はレポートしきれないので、今度また訪問しようとの思いをもち、昼食場所と考えている美唄焼鳥の「たつみ」に向かう。

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