真田丸・真田山陸軍墓地・三光神社・高津宮

城郭・チャシ

令和6年(2024)1月26日(金) 真田丸跡・真田山陸軍墓地・三光神社・(大阪府大阪市天王寺区餌差町5)、高津宮(大阪府大阪市中央区高津1-1-29) 心斎橋~真田丸往復 5.9km 1時間10分

 出張最終日、朝活で宿から大阪城南にある真田丸跡を訪問することに。真田丸は徳川家康に最後まで抵抗した真田幸村が、大阪城の弱点を補完するために築いた出丸である。この真田丸が徳川軍を苦しめたそうだ。朝6時過ぎに宿をでるがまだ暗い。しかし飲み屋街なのでまだ若者や飲み屋のお姉さん、外人がたくさんいる。しばらく走ると道の真ん中に小さな神社がある。珍しい。
 3kmほど東に真っすぐ走り、学校のグラウンドのところに真田丸顕彰碑があった。

【真田丸顕彰碑(概要)】
 (真田幸村の経歴は略)真田幸村は、大阪冬の陣が勃発するや否や、慶長19年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大阪城に入城。幸村はすぐに大阪城の弱点が南側にあるのを見抜き真田丸を構築。幸村は同年12月4日、この真田丸を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川の大群を手玉に取った。真田丸の場所については、元禄年間に作成された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が真田丸の跡地であることが明らかになっている。

 真田丸の反対側の心眼寺の門にも「真田丸出丸城跡」の碑と「京都見廻組 桂早之助 渡辺吉太郎 墓所」の碑があった。
 三光神社に向かうため住宅地を走ると「どんどろ大師」(高野山真言宗 善福寺)があった。木の説明板があり、「お弓 おつる、歌舞伎、傾城阿波の鳴門、どんどろ大師門前の場、父様の名は阿波十兵衛・・・」と記されている。
 そして、三光神社の反対側の緑地に到着したが、そこは真田山陸軍墓地であった。とても多くの墓石が並んでいた。その中を通って手を合わせて神社に向かう。説明板があったので、概要を記す。 

【真田山陸軍墓地】
 明治2年から3年にかけ、陸軍の中枢機関が大阪に創設されたことに伴い、明治4年に日本で最初に設置された陸軍墓地。墓地内には明治6年の徴兵制以降の兵士で、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次大戦、先の大戦を含め約5100基の個人墓碑と8200人の遺骨等を納めた納骨堂がある。

 陸軍墓地を過ぎると三光神社があった。真田幸村の像があり、その横に神社の歴史を説明する石碑と寿老神の像があった。
【三光神社の碑】
 遠く生駒金剛の連山を見 はるかす景勝のこの地に永くその由緒ある三光神社の御門として誇っていた鳥居も過ぐる第二次世界大戦の戦火を被りその片柱のみをとどめた・・・(以下略)。
【三光神社の由緒】神社ホームページより
 当神社は、大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となった。
創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。

 帰りはだいたい道頓堀につながる一本南側の道を走って帰ると高津宮に到着した。昭和20年の大阪大空襲でも神輿蔵の龍神様が生き残ったらしい。境内には五代目桂文枝の碑もあった。

【高津宮の由緒(神社ホームページより)】
 当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。
仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。
 その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年(866年)勅命(天皇の命令)によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正十一年(1583年)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座(神社の御神体が移ること)になって今日に及んでおります。
 仁徳天皇の徳政を敬い大正十年に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われています。
 昭和二十年三月の第二次大戦の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しました。しかし戦後氏子を始め崇敬の厚い奉賛により昭和三十六年十月社殿以下ことごとく復興完成を見ました。

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