伊達市のチャシ

城郭・チャシ

伊達市有珠地区(有珠駅→チャシコツチャシ跡→ポロチャシ跡→アルトリ岬→ポンチャシ跡→大臼山神社→会所跡→善光寺→宇宙軒→有珠駅)

令和3年(2021)6月5日(土)9.8km 1時間38分

 家系城郭研究所さんによると、伊達市有珠地区には三つのチャシがあるので、走って訪問することに。有珠駅に車を停めて国道を横断し、有珠小学校の向かい、アパートの裏の山がチャシコツチャシ跡だった。藪に囲まれて登れず、写真を撮るにとどめる。

【チャシコツチャシ】
・城 跡 名:チャシコツチャシ
・所 在 地:北海道伊達市有珠町14-1  マップコート:321 335 095*01
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:不明
・大きさ:不明
・標高:不明
・説明板:なし
・伝説:なし

 その後、アルトリ岬に向かって内陸の農道を走るとポロチャシに到着した。ここは農家の裏山で、藪が酷く登ることができず、ここも写真を撮るにとどめる。

【ポロチャシ】
・城 跡 名:ポロチャシ
・所 在 地:北海道伊達市有珠町171  マップコート:321 304 655*21
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:楕円形の段を巡らす、西側では2段になる
・大きさ:不明
・標高:23m
・比高:18m
・説明板:なし
・伝説:
1 古昔他部落同族と累々戦闘ありて、本部落酋長等の籠りたる城砦なりしが、他部落より侵襲に遇ひ陥落全滅せしも、其酋長の女容色あり、押へられて敵に嫁し後、三男子を挙げ其子孫本部落又は真狩方面に棲息蕃殖せしものなりとす。土人の口碑に伝ふるあるのみ。
2 伝え云う。昔時此地「アイヌ」の家数多ありしが「イルテメアイヌ」と云ふもの有珠より来り襲い二個の「ポンチャシ」を破りたれば「ポンチャシ」より「オタモイ」(南方海岸)までの部落は滅亡し人多く死せり。此時「ポロチャシ」に拠りたる酋長某は適する能はざるを以て和議を申し入れ女を以て「イルテメアイヌ」に嫁したり、因りて「マクンコタン」(ポロチャシ付近)のアイヌは殺されざりしと云う。
 「イルテメアイヌ」に子あり、長を「カンドカクシ」次を「トミタールアイヌ」と云ふ。此の二人各部下六十人を率い尻別川に赴き「ルーサン」と「ポロイチャシ」とに於いて鮭を漁し之を乾燥し雪中負いて有珠に帰るを例とす。後「トミタールアイヌ」の部下は故ありて其首領を殺し尻別川を下りて行衛不明となりしとぞ。
3 この後ろのチャシの上に、ヤグラ・シマといって、ちょうど人のねまるほどの平らな石がある。その上にアグラをかいて軍の指図したものなそうだ。平たい大石や、貝殻が沢山ある。昔は向こうのポンチャシと向き合って、イクサ(戦)の城であったという。

 ポロチャシからアルトリ岬に向かう。ここはキャンプ場になっているが、コロナのため閉鎖中であるが、構わず中に入る。ここは陸続きの島のようなところなので、海や海岸、周辺の山が見渡せる景色がよい。
 アルトリ岬を後にして、海岸沿いの道を戻るとすぐにポンチャシに到着した。麓の住宅で庭作業をしていたおばちゃんに登れますかと質問すると、わからないということだった。パークゴルフ場側からまわると説明看板があり、藪が若干あるが登れないことはないと考え、ヘビが怖いが登るとチャシ頂上に登ることができた。樹木はあるが見晴らしがよい。壕はないが、整地又は盛ったような雰囲気がある。家系城郭研究所さんのコメントを転載。「ポンチャシは頂上部分が平らになり、周囲をぐるっと回るように段ができていて、遠くから見るとお供え餅型に見えます。典型的な丘頂式のチャシです。南側はもう一つ段があって二段になっています。」

【ポンチャシ】
・城 跡 名:ポンチャシ
・所 在 地:北海道伊達市向有珠町
        マップコート:321 304 461*64
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘頂式
・主な遺構:段
・大きさ:80m×80m
・標高:14m・比高:11m

・説明板:このチャシは、平面が楕円で高さ14mの独立丘を利用し部を平らにし、南部に段をつくった丘頂式チャシコツである。また、このチャシの裾野一体は続縄文時代から擦文時代にかけての貝塚が分布する貴重な遺跡である。

・概要・伝説:「日本城郭体系」
 昔、有珠の酋長がここの砦にあった時、紋鼈のイルテメアイヌが攻め込み、ポロチャシの北方に砦を構え、ついに有珠のアイヌを破った。イルテメアイヌは向有珠の酋長の娘ととの間にカンドカクシ、トミタールアイヌの二子(三子ともいわれる)をもうけ、その子孫は有珠・真狩方面に広まった。

 次に漁港沿いのポロノット森林公園に行くが、鬱蒼として道も狭くヘビが怖いのでやめて、善光寺に走りに行く。途中の地蔵堂のところに織部灯篭(異名 キリシタン灯篭)があった。江戸時代迫害を受けたキリシタンがここまで来ていたのかと感慨にふける。

【織部灯篭(異名 キリシタン灯篭)】
 潜伏キリシタンの遺物として全国の各地に建立されたもので、善光寺の寺伝によれば、寛永年間(1624~1643)松前家7代の公広の頃、迫害を受けた切支丹が建立したものと伝えられている。
 織部灯篭は、この形式の発案者である古田織部正重然の名をとって名づけたものと言われ、竿石に聖母マリアを観音菩薩の如くに刻み、竿石上部のふくらみを十字に形どった特徴を持つ、切支丹文化史料として貴重なものとされている。
 別名を「マリア地蔵」「子持地蔵」とも呼ばれ、他の多くの地蔵と共に祭られていたものが発見されたのである。
 長年の間に笠石、火袋石は失われ、竿石のみが残っているが、道内には、この他、松前等に3基あり日本最北の織部灯篭である。
(実物は、善光寺境内の有珠郷土館に保存してあります)
 開基百年記念物指定 昭和44年8月23日 伊達市教育委員会

 その次に、善光寺を少し過ぎると有珠会所跡があった。
 
【有珠会所跡】
 伊達市指定史跡 有珠会所跡 昭和62年12月25日指定
 ここは有珠場所経営の中心となった有珠会所があったところです。
 有珠の会所が、正確にいつ設けられたのかは明らかではありませんが、文献に初めて現れるのは寛文年間(1661年~1672年)で、,おそらくこのころに設立されたものと思われます。
 会所では運上金の収納、駅逓人馬継立、通行人の宿泊、日用品の供給等の業務が行われ、当時の蝦夷地での経済や交通などの重要な機関でした。
 明治2年、伊達邦成が支配地検分のとき最初に到着したのもこの会所です。

 その後、歴史溢れる善光寺を見学し、宇宙軒でラーメンを食べて車に帰る。

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