マラニック(上野~上野公園~谷中~日暮里~上野)
平成27年(2015)9月26日(土) 距離不明 約1時間
東京出張で1泊後の土曜日は、個人研修のため、江戸川ボートと中山競馬場(別途報告)を見に行くこととするが、恒例によって宿がある上野から早朝ランニング。
上野公園【西郷隆盛像】「敬天愛人」
西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。
【彰義隊の墓】
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
【摺鉢山】(標高24m)=前方後円墳
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古墳と考えられている。現存長七十メートル、後円部径四十三メートル、前方部幅は最大部で二十三メートル。後円部の道路との比高は五メートルである。丘上は、かつての五條天神社、清水観音堂鎮座の地であった。五條天神社の創立年代は不明であるが、堯恵法師は『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神社を訪れた際、
契りきて たれかは春の初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。
現在、上野公園忍坂脇に鎮座。清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、寛永寺根本中堂建立のため、元禄七年(一六九四)現在地に移転した。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
【正岡子規記念球場】
春風やまりを投げたき草の原
が刻まれています。また、同野球場の愛称が、東京都の協力により「正岡子規記念球場」となりました。 正岡子規(1867年から1902年)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれました。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいました。子規の随筆『筆まかせ』には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行なったことが記されています。幼名の升(のぼる)にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号を持ち、野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いています。また、ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われています。それらの功績から平成14年に野球殿堂入りをしました。
子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2丁目5番11号)の名で公開されています。
【山岡鉄舟の碑】全生庵 台東区谷中5-4-7
(説明板)「山岡鐡舟居士之賛
鐡舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に印可受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐡舟を讃える碑であり、その才智の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐡舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える。」
【三遊亭園朝の碑】場所は同上
【岡倉天心記念公園】東京都台東区谷中5-7-10
岡倉天心記念公園は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園しました。約700平方mの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されています。
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