高崎城址・陸軍歩兵第十五連隊趾

城郭・チャシ

令和6年(2024)4月29日(月祝)

 中山道歩きは横川駅で終了し、宿泊予定の高崎市まで戻り、市内を散策。高崎市は城下町であったが、明治維新後、陸軍の基地になったのだ。

【高崎城址(三の丸外囲の土居と堀】(説明板概要)
 箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長3年(1598)であった。直正は和田と呼ばれていたこの地を松ヶ崎と改めようとしたが、竜広寺の住持白菴に相談した。諸木には栄枯があることから、「成功高大」の意味から「高崎」と名付けるよう進言、採用された。この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。直正は和田城を取り囲むように坪数う5万1613坪の広大な城郭を築いた。築城にあわせ城下町も整備、箕輪から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町は移転した町である。明治4年の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり兵営や練兵場を整備するため整地された。本丸や二の丸の土塁は現存しておらず、三の丸の壕と土塁が面影をとどめている。

 城跡を散策すると陸軍関係の石碑が多く設置されていた。日清日露、太平洋戦争まで多くの若者がこの地から激戦地に向かい、多くの若者の命が失われた。

【顕彰碑】
 (昭和43年10月23日 元歩兵第15連隊郷土出身陸海空戦没者合同慰霊祭実施規制連盟)

【歩兵第十五連隊趾 址碑之由来】
 上毛の三山を仰望し 烏の清流を俯瞰する此の地は 正長元年の昔 和田城が築かれて300余年を閲歴 後に名を高崎城と改め 中仙道を扼する要衝であった。明治5年国民皆兵令の施行に伴い東京鎮台第1大隊の屯営となり 明治17年5月歩兵第十五聯隊が創設され 翌18年7月軍旗親授の栄に輝き威容を充実 城内は一新されて外郭の城塁と烏川沿いの懸崖のみが依然古城の歴史を誇り 朝に嚠喨たる喇叭の響き夕べに勇壮なる練武の雄叫びは 坂東武士の流れを汲む郷土の人心と相和して精強高崎聯隊を育成した。宜なる哉 日清戦役以来国軍の赴くところ聯隊の征かざるなく 特に日露戦役の旅順においては死命を制する展盤溝を攻略して高崎山の名を残し 奉天大会戦においては其の天王山とも称すべき三台子の要衝に楔を打込み 大勝の端緒を開き以て上毛健児の心魂を天下に顕示した。而して其の偉大なる伝統は 後の歩兵第百十五聯隊を始め外征各郷土部隊及び常駐東部第三十八部隊に遍く継承発揮され今尚誇り高く語り継がれている。爾来 歩兵第十五聯隊は シベリヤ 満洲その他累次の征戦に勇名を馳せ 日支事変の勃発と共に黄河の南北に進攻後 チチハルに移駐して北辺に備え 太平洋戦争の急迫に因り急遽パラオの島嶼作戦に南征するや峻烈を極むる敵の攻撃はペリリュー島の第三大隊に集中され逆上陸を敢行した増援の第二大隊と共に死闘4ヶ月 凄絶無比の最期を飾って全員玉砕した。歩兵第百十五聯隊は 杭州湾の敵前上陸に引き続き南京 徐州の作戦後ダンピール海峡の死闘を経て ニューギニヤに転戦 ラエ サラモアの激戦に次いで標高4千5百米のサラワケット山系を越え ウエワクの激戦に。歩兵第二百十五聯隊は 中支方面の作戦後 ビルマに進駐 ラングーンの一番乗りを敢行し ビルマ及び苛烈極まるインパール作戦を経てイラワヂ河畔の激戦に。歩兵第二百三十八聯隊は 北支方面の作戦後 ニューギニヤに転戦 歩兵第百十五聯隊と呼応してラエ サラモアの激戦に次ぎサラワケット山系を越え アイタペの作戦に。歩兵第八十五聯隊は 中南支方面の作戦を経て仏印に進駐 ラオス タイ方面の作戦に。大要以上の如く 裏面記述の各郷土部隊も亦共に朔北より南溟に亙る広大且つ悪疫瘴癘 人跡未踏の戦野に身を挺して勇戦敢闘 想像に絶する困苦と飢餓に堪え 至誠一貫 身を捧げて郷土の負託に応えた。然るに 空前絶後の太平洋戦争は 昭和20年8月15日終戦の大詔を拝するところとなり 生存将兵慟哭の裡に各聯隊すべて軍旗を奉焼し 終焉となった。憶えば 此の地に兵営が創設されて72星霜 この間 練武の貔貅30数万 華と散った英霊実に5万2千余柱の多きを算う 寔に痛恨の極みである。茲に広く県内外の関係者相寄り相議り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求し祈念する。昭和51年5月25日 歩兵第15聯隊趾之碑建立委員会

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