中山道16松井田宿・酒盛城・松井田城

中山道

令和6年(2024)4月29日(月) 酒盛城跡・松井田宿・松井田城 当日の総徒歩距離 25.2km 7時間7分

 松井田宿の手前、大栄創業の事務所のところで、岩々が連なっている所に「酒盛山城 風林火山」という石碑と、同城の説明板があった。

【酒盛城跡】(説明板概要)
 安中市郷原字酒盛山 武田信玄/武田勝頼 永禄7年(1564年) 酒盛城は、国道18号線の北側、碓井川に臨む比高20mほどの河岸段丘の上に築かれていた。北側は谷戸部に臨む低地、国道を挟んで南側には高さ20mの小山があり、それは天然の城塁として機能を持っていた可能性がある。大栄創業事務所の屋上から景色を眺めると、妙義山や浅間山の景色が広がる。しかし、明確な遺構は存在していない。酒盛城は伝承によると、松井田城を攻め落とした後、武田信玄と武田勝頼らがこの地で酒盛りをしたという言い伝えがある。伝承が真実だとすると、ここは城郭というよりも武田勢が陣地を置いた場所なのが実際のところなのかもしれません。

 松井田宿に入る。妙義山が綺麗だ。旧家らしき建物もある。

 右折して松井田城に行くかどうか悩んだが行くことにした。登り坂を登りしばらく下る。途中弓道場があって道を聞くと城のガイドパンフレットをくれた。そして散歩しているお爺さんにお城のことを聞くと、快く教えてくれたが、反対側の高速道路の方に降りれるかと聞いたが、迷うかもしれないと心配なことを言ってくれた。もうここまで来たので、ガイドブックもあるのでなんとかなるだろうと思い、登城を開始。登城というよりも完璧な山登りである。しかし、地元の保存会の方が、クマよけのガンガンや重要箇所に印をつけていてくれて、難なく登れていく。途中、土塁や堀切、横堀等を通り、大手門跡から急坂を登ると本丸であり、店主が阿多田ところに虚空蔵堂があった。登城できたことに喜びを感じ、ショートカットできる安中二の丸に向かう。下山もガイドパンフレットのお陰で迷うことなく国道18号松井田バイパスに出ることができた。

【松井田城】松井田城址保存会のホームページから転載
 松井田城は戦国時代に修築された広大な山城です。標高410m(比高130m)の山の尾根に、東西に1Km、南北に1.5Km(面積約75ヘクタール)の城域を有しています。北条方の西の要として東山道を押さえる要衝にあり、大道寺駿河守政繁が城代の時に大改修されました。
 天正十八年(1590年)に秀吉の北条攻めが始まると豊臣方北国勢(前田利家・利長父子、上杉景勝、真田昌幸、松平康国・康真兄弟)の約三万五千の大軍に囲まれ、三千余(一説には二千余)の寡兵ながら総攻撃に耐えて開戦から約一ヶ月持ちこたえましたが、落城(降伏開城)しました。
 四百年の歳月を越えて広大な城の遺構は草生すまま、全域が落城した当時のまま手つかずに残っています。発掘して整備すれば、戦国時代の山城の縄張りが見られる県内有数の中世城郭であり貴重な文化財です。現在は、松井田城址保存会が案内板を整備したり、定期的に草刈りや倒木処理を行い、歩きやすくなっています。低い山ですが、急坂もありますので山登りの恰好で御越しください。 山ヒルや野生動物も出没しますのでご注意ください。

 旧道に戻ると補陀寺であった。室町時代の創建、武田家、安中家から庇護されていた。一里塚を通り、妙義山を裏側からみる。

【補陀寺】(HPより転載)
 大泉山補陀寺は群馬県安中市松井田町新堀に境内を構えている曹洞宗の寺院です。補陀寺の創建は室町時代の応永年間(1394~1428年)、無極慧徹禅師(肥前国出身、室町時代の曹洞宗の高僧)によって開かれたのが始まりと伝えられています。当初は草庵でしたが、無極慧徹禅師が美濃国の大泉山補陀寺の住職時代の弟子で跡を継いだ月江正文(尾張楞厳寺、上野双林寺、武蔵普門院を開山)が、寺号を移した事で正式な寺院となり自らを2世としました。歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護され、特に武田信玄は元亀3年(1570)に寺領を安堵する朱印状を発布し、天正10年(1582)からは小田原北条氏の有力家臣で北条家三家老とも言われた大道寺政繁が当地に配されると自らの菩提寺としました。

 「五料茶屋本陣」を通り、旧街道を進むと茶釜石であった。

【茶釜石】
 この奇石は、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った蜀山人は、この石をたたいて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。”五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて 通る旅人”この石はたたくと空の茶釜のような音がするのでその名がある。人々は、この石をたたいて、その不思議な音色を懐かしんでいます。五料の七不思議の一つに数えられています。

 そして「碓井神社」を参拝。創立年代不詳で、慶安年間(1648~52)にご社殿を改築し、碓氷峠山熊野神社の里宮として碓井神社と呼ばれたそうな。

 今回の旅は横川駅で終了。SLの出発前であり、数多くの鉄ちゃんがいた。

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