箒銀杏、玉川用水跡(東京都渋谷区)

古木

令和5年(2023)6月29日(木)

東京出張中、前泊と早朝ランニングで、史跡に行けないかと思ったが、会議会場に向かう途中、箒銀杏と玉川上水跡いう史跡を見つけた。

東京都渋谷区代々木三丁目23番3号

「箒銀杏」【説明板概要】

 この大きな銀杏の木を少し離れた場所から眺めると、箒を逆さにして立てたようにみえることから、箒銀杏と呼ばれている。樹齢は約三百年、近くの玉川上水に育まれた。かつ、渋谷区内に銘木が数多くあったが、都市化と戦災によって伐採、枯れてしまい、この箒銀杏だけになった。この場所は、天神様の境内として江戸時代の地誌でも確認できる。明治33年(1900)に代々木八幡宮に合祀され、今も根元には天神様の小祠がある。渋谷区教育委員会

【玉川用水跡】ここには、かつて神田上水とともに江戸の二大上水と呼ばれた玉川上水が流れていました。現在は暗渠となり、当時の面影を偲ぶことはできませんが、各所に残る橋の欄干は玉川上水の名残です。

 江戸時代初期、江戸の住民は神田上水と赤坂溜池の水を飲料水として利用していましたが、江戸市中の発展につれ水不足をきたしました。そこで、承応元年(1652)に玉川上水開設の計画が立てられたのです。承応2年(1653)正月、幕府は庄右衛門・清右衛門兄弟に工事請負を命じました。ここに老中松平伊豆守信綱を惣奉行とする、玉川上水開設の計画はスタートしたのです。信綱の巨安松金右衛門の設計に従い、多摩郡羽村に堰を設けて取水口とし、四谷大木戸まで約43キロの開削水路を通し、そこから先は地価に配管(石樋・木樋)を敷設するという、当時としては非常に画期的な工法がとられました。

 このほかに玉川上水は、江戸市民の飲料水供給にとどまらず、灌漑用水や新田開発など武蔵野台地の発展にも計り知れない恩恵を授けたのです。

 渋谷区教育委員会

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