平成27年11月1日(日) 家~琴似~新琴似~屯田~麻生 約14.1km 1時間53分
休日の午前中、吉方位である北、北西方面に走るため、屯田方面まで走ることに。
途中琴似を経由したが、新琴似までの道も屯田兵たちの開拓の道なのかもしれない。
屯田までは途中ポプラ並木を少し通ったが、根っこに突っかかって転んでしまったが、何も怪我がなかった。これも吉方位の効果だろうか。そして屯田地区センターの資料館に行くと、会館が13時からであった。ここは午後を目指してまた来よう。
そこから少し北に行ったところに、江南神社があり、そこに移住記念碑があった。
【転載】
この碑は篠路屯田兵が開村を記念して、明治29年に建立したものである。篠路屯田兵は明治22年7月220戸が入地し、屯田第一大隊第4中隊として発足した。士族屯田としては最後のものであった。篠路屯田兵は屯田防風林を境に新琴似屯田兵村に設置、その範囲は北区屯田町がすっぽり含まれる。旧発寒川の左岸地区、すなわち石狩町花川の一部も篠路屯田兵村区域であった。屯田小学校、北陵高校を中心にして、屯田中央中学校、同南小学校などがある。
創成川右岸の石狩街道を基線に、これと直角に西方に向けて道路を333間おきに5本設け、南から順に1~5番通りと名付けた。これに直交するように、横線と呼ぶ道路を24等分して12戸ずつ背中合わせに2列に並べ、1戸分の区画とした。1戸分の土地は原則として間口30間、奥行き166間で、面積は約1.6haとした。そのうち150坪が宅地で、他は農耕地にあてられた。土地区画は基本的には散居制で、その後道内各地で多く行われるようになる。地番は南の1番通りは、片側2戸(うち1戸分は事業場)とし、その向かい5戸のみとして、その東端を1番地として、向かい側と交互に番地を付した。2~3番通りは同数の平屋を並べたが4番通りも対象ではなく、その北東端を220番地として、5番通りは追給地だけとした。現在、2、3番通りの中間に整備されている自転車歩行専用道は、大正5年に篠路兵村が造田した際に開削した灌漑用水路の跡である。
兵村の管理共用施設は、3番通りと第2横線が交わる一角に設けられた。中隊本部は現在の屯田小学校(7条6丁目)の位置で、中隊長の官舎はその北側にあった。第二線を挟んで西側が練兵場であった。射的場は発寒川の北岸にのびる砂丘を利用したが、本格的な訓練は、山鼻兵村まで行かなければならなかった。明治23年、練兵場の北側に長永簡易小学校が開設された。これが現在の屯田小学校の前身である。
新琴似や篠路は札幌の北に残る広大な平坦地であったが、河川は大雨のたびに氾濫を繰り返し、泥炭が厚く堆積して土地条件が悪かった。この地を農耕地とするには、大規模な河川改修や排水溝、土地改良などを必要とした。屯田兵はその大きな力となった。新琴似。篠路は拓殖に比重を置いた兵村であったといえよう。
【開基90周年記念顕彰碑】
神をうやまい 祖をとうとひて九十年 にい宮はなる 江南のさとに 晋平
碑文
わが町 屯田の基礎を築いたのは、屯田兵第一大隊第四中隊で明治二十二年7月15日 220家族1,516人がこの地に入植した
この屯田兵には二大使命があった
一つには屯田兵として北方防備の第一線に献身する
二つには北海道開拓の先駆者となることであった
この地に入植した屯田兵は四国 九州 北陸など暖国各県の士族で寒冷不毛に耐えて家族とともにこの使命に服した
兵は連日 厳格な軍律のもと教練を受け家族もまた教令に従って開墾に励み 本道開拓の大きな使命をを遂行 大自然の猛威もよく克服して子孫のため楽土建設に汗を流したのである
かくして今日 わが町屯田は基礎ができ今日の興隆を迎えた
ここに屯田町開基90周年を迎えるに当たり 加えて土地改良区65周年を合わせて 町を挙げて協賛会を結成 記念事業として江南神社及び社務所御造営 顕彰碑建立を企画実現した
先駆者の偉大な功績を称え 敬神崇祖 今後の屯田町の生成発展を記念するものである
昭和53年7月15日
屯田町開基90周年協賛会
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