平成27年(2015)1月4日(日) 10.3km 1時間29分 東区元町図書館~栄町~日の丸農場跡~麻生~琴似~家
お正月三箇日も明け、図書館も開館したので、元町まで地下鉄で行って、年末年始に借りていた本を返すことに。しかし、返却すべき本を2冊忘れ、がっかりし当初目的であるモエレ沼まで走って帰る意欲も失せ、栄町経由で家に帰ることに。
栄町を左折するとすぐに「ひのまる公園」(北41条東10丁目)。ここには「日の丸農場跡」碑がある。碑のあるところまでは、踏み跡もなく雪にずっぽり埋もれており、これまたスノトレで難儀しながら到着。札幌歴史の本からこの碑の由来を転載。
<転載開始>
日の丸公園は、かつてこの地にあった日の丸農場の跡地である。この辺りは低湿地で条件が悪かったため農地にされず残されていたという。この碑は日の丸農場を記念して日の丸水田組合が昭和47年に建てたものである。
日の丸農場の所有者であった松本菊次郎は、慶応3年(1867年)、今の三重県名張町の農家の次男に生まれた。尋常小学校卒業後、大阪新聞外事部の記者になったが、北海道に興味を持ち、明治23年(1890年)、函館の北海道共同商会に入社。やがて北海道は若い火山灰土が多く、燐酸分が不足しがちであることを知り、肥料販売を思い立ち、日の丸産業を興した。当初、肥料を各地の農場で使ってもらい、その効果をもとに普及を図った。日露戦争などで馬の飼料増産を図るために肥料の需要が高まり、日の丸産業は小川二郎の興農園と並び北海道の肥料販売業界の雄となっていった。
松本はいち早く、化学肥料の重要性を提唱し、また、北海道のような広大な農地では、人力主体の農法を改め、機械力導入の必要性を説いた。日の丸農場は、化学肥料や農業機械などの試験場を兼ねて、農業経営に乗り出したものである。農場は明治41年11月に北海道英語学校(現:北海高校)を経営していた浅羽靖から購入した。農場は直営地のほか、一部は小作地とし、アメリカから輸入したトラクターなどを導入し、また、真駒内種畜場から入れた乳牛を飼育して、近代的アメリカ農法を実践した。
当初、えん麦を多く作付していたが、米作が奨励されるようになると水田に切り替えていった。自己所有地と付近の土地を合わせて約150haを創成川の水を利用して造田し、大正2年(1913年)から試作を始めた。小作人は肥料の購入で松本から恩典を受けたが、他の農場に比べて小作料が高かったため、小作争議が絶えなかったという。戦後の農地解放で20年割賦償還で小作人に開放された。このとき、用水路を共同管理する必要から、同24年日の丸水田組合が結成された。しかし、住宅化により、用水路は埋め立てられ、水田は焼失した。
<転載終了>
なんと今では地下鉄が通っている栄町付近は昔は畑、戦後しばらくは水田だったのだ。しかも、化学肥料や農業機械導入による北海道の近代農法がここから始まったのだと少し感動。ちょっと残念なのは、小作料が高く紛争が絶えなかったという。そのような経緯からもこの松本さんの名前は後世にはあまり有名にはならなかったのではないかと想像。
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