夕陽記念館・亀田八幡宮・土方歳三最後の地・中島三郎助父子最後の地

戦跡・古戦場

平成27年(2015)1月18日(日)1時間半程度 距離不明 五稜郭~道教育大函館分校~亀田八幡宮~土方歳三最後の地碑~中島三郎助親子最後の地碑~市立函館(旧東)高校

 急きょ母校駒ケ岳小中学校のクラス会が開催されることから函館へ。美味しいお酒を飲むために、飲み会の前に恒例の街角ランニング。

 五稜郭から田家の通りを走り、北海道教育大学函館分校へ。ここには北方教育資料館・夕陽記念館がある。ここは明治9年に設立されたのだが、説明版によると、明治期の洋風建築様式を取り入れ、三階の塔屋を中心に左右対称の構造、玄関前の切り妻造りの車寄せが突出し、それを支える柱は三本一組で柱頭飾りも施し、ギリシャ建築様式を連想させるそうな。

 続いて近くの亀田八幡宮へ。由緒によると明徳元年(西暦1390年)、室町時代の造営だそうだ。古い。ネットによると戊辰戦争の時の弾痕が社殿にあるそうだが、見つけることができなかった。以下、由緒をネットより拝借。
(転載はじめ)
明徳元年越前国敦賀郡気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国笠原右源太が当地に奉遷。その後河野加賀守森幸が、右源太の孫左衛門をして本殿造営をしたが、松前藩祖信広との戦乱の為祭祀営繕不能となる。蝦夷地大乱の時、松前藩4代慶広が南部大澗より渡来の智楽院(藤山家の祖先)に七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせ大勝し、その時アイヌ勢が七重浜の柏樹草木を軍勢と見て降参したのは八幡宮の加護と、藩祖信広の大弓半弓矢を奉納、正月6日の法楽神事を仰付け、七重浜の柏樹林の伐採を禁じ、松前藩の祈願所に定めた。慶長8年10月本殿拝殿を建立(現神輿殿・文久2年8月改築)。毎年祭祀料玄米25俵、各村の役納を仰付け大祭毎に代参。明治元年蝦夷統督清水谷侍従参拝。戊辰戦争では、幕軍榎本武揚・大鳥圭介等が当宮神殿で降伏を誓約。同2年8、12月侍従東久世通禧参拝。同9年郷社。同15年有栖川宮一品幟仁親王御真筆の奉納。同41年神饌幣帛料供進神社に指定。
(転載終わり)

 次に若松町にある「土方歳三最後の地碑」へ。ここは戊辰戦争時代、一本木関門があったところでもある。ネットから由来を拝借。
(転載はじめ)
1835年に武蔵国で生まれた土方歳三は若い頃から剣技を極め、1863年に発足した新撰組では28歳の若さで副長の地位に就く。1867年の大政奉還により始まった戊辰戦争では幕府側について戦うが、次第に戦況は悪化し蝦夷に追い込まれる。1868年、蝦夷に上陸した榎本武揚始めとする幕府軍残党は箱館、松前、江差と占領したが、1869年4月に新政府軍が乙部に逆上陸すると次第に追い詰められ五稜郭に入る。5月11日に新政府軍の箱館総攻撃が始まると、孤立した弁天台場の奪回と仲間たちの救出を目指し、土方歳三は50人の部下を引き連れて出陣した。一本木関門にて新政府軍に応戦、馬上で指揮をとって戦ったが、その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬し側近が駆けつけた時には絶命していたとされる。
(転載終了)

 次に、高砂通りを五稜郭方面に引き返す。中島町に「中島三郎助父子最後の地碑」がある。碑を読むと、中島三郎助は浦賀の出身で、幕府の長崎海軍伝習所の一期生というから、恐らく坂本竜馬と一緒であったのだろう。碑の説明文を転載。
(転載はじめ)
 中島三郎助は神奈川県浦賀生まれ、浦賀奉行配下の役人であり、1853(嘉永6)年、三浦半島浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込み、ペリー提督らと直接応接して、日本外交史で重要な役割を果たします。1855(安政2)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方に就任。明治維新後、榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道にやってきました。箱館戦争当時、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。
 現在、中島三郎助父子にちなんで、千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名づけられ、この地に慰霊碑が建っています。また、地碑周辺にはクロフネツツジやミツバツツジをはじめ、季節の花々が植えられ、地域の方々によって常に整備され、訪れる人の心を和ませてくれます。
(転載終了)

 次に母校の市立函館(東)高校へ。ここは函館東高校の前身函館市立中学校の建設にあたって、建設費を寄付した梅津福次郎翁の顕彰を記念したものだそうだ。現役の若いときには一切気付かず興味もなかったが、母校にこんな史跡があったとは。ネットによると当初は氏の胸像を建てる予定だったが、当時、すったもんだして、庭園になったそうである。「頌徳碑付近は梅津福次郎翁の梅と福の字に通じる馥を選び「梅馥園」と名付け、植樹、築池をなし、本校の聖地として保存している」。
 その後、昔、部活の合宿でよく泊まった「ひんがし会館」、いまは「市函会館」を眺め、感傷に浸りながら、五稜郭のお堀を走り、宿に向かう。 

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