屯田資料館・錦山天満宮・旧町村農場

古い建物

平成24年(2012)5月3日(木) 地下鉄栄町駅~東苗穂~米里~大麻~江別 14:00頃~17:00頃

 日は、天気が雨の予報でランニングをあきらめていたが、何とか雨が降らないでもちそうだったので、かねてから考えていた栄町から江別まで走ってみた。このコースは、江別に若干歴史的な史跡があるのである。また、大麻は昔、独身時代にすんでいた独身寮があるので、今がどうなっているのか探る目的もある。

【屯田資料館】
 屯田資料館は、明治17年ごろに作られた、現存している最も古い屯田兵の旧野幌屯田兵第二中隊本部となっており、数少ない明治期の官庁建築として、北海道指定文化財にもなってるのです。この建物の大きな特徴として、基礎の上の土台から2階にかけての軒桁までを、直接、通し柱の連続で壁を作ってあります。床根太は柱に直接釘打ちをし、さらに製材を連続的に釘打ちする事で空間を作り出していくので、小人数・省施工・使用製材の小ささなどのプラスがあります。この構造のことを、「バルーンフレーム方式」といい、札幌のシンボルである「時計台」も、実はその工法が利用されています。屯田資料館は、もともと大正2年に江別第二小の横に移され、農業振興会事務所などに使用されていました。それが、平成6年にもともとあった近い現在地に移され、歴史的建造物として恒久的な保存をはかるという思いから創建当時の形態に修理、復元され屯田資料館となりました。(わざわざなにも神社の横に移すことは無いような気もしますが)この屯田資料館では、屯田兵による開拓の様子の展示、資料や備品などもおかれており、一般開放されています。住居の様子がそのままのこされていたり、人形がいたりと、結構おもしろい資料館になっています。

【錦山天満宮】
 明治18年、19年、九州各県・山口・広島・岡山・鳥取の各県から野幌屯田兵の入植により、原始の密林を開拓し入植者の「心のよりどころ」として明治22年伊勢皇大神宮から御分霊を奉斎して祭祀したのが始まりで昭和62年には御鎮座100年を迎えることとなりました。当時「錦山神社」として、野幌地域の鎮守、五穀豊穣の神として崇拝されておりました。
 昭和48年、九州太宰府天満宮から菅原道真公の御分霊を奉斎して、錦山天満宮と改名して以来「天神さま」の御神徳を仰ぎ今日に至ります。平成2年には、太宰府天満宮より御神納の梅の苗木を賜り、境内には梅園が造成されました。 

 最後に、旧町村農場による。ここは20年ほど前にまだ、ここで酪農を営んでいたときに仕事の関係で訪問したことがある。今は博物館的なものになっていて、見学すると北海道酪農の礎を築いたのだのと実感する。 

【旧町村農場】

■概要・見所
 1928(昭和3)年、対雁(現いずみ野)に故町村敬貴氏によって開かれた町村農場の篠津地区への移転が決定したことを契機に、市街地に残る数少ない貴重な歴史的建造物であり、市を代表する牧歌的な景観であるこの農場を市民共有の財産として保存し、次世代へ継承するため、創建当初に近い姿に復元・整備し、1996(平成8)年10月15日に開設しました。
 敷地面積は11318.96㎡、第1牛舎、旧町村邸、製酪室の3棟の建物に数々の展示品を備え、市民の学習の場として提供しています。
 平成19年11月に経済産業省より「近代化産業遺産」として認定されました。

【歴史的建造物/北海道大学建築史意匠学研究室・原朋教】
◆町村農場第一牛舎など(3件)
 農場創設者の町村敬貴は1917(大正6)年、石狩町樽川村にあった父金弥の所有地に牧場を開設するものの、条件が悪く、1928(昭和3)年現在地に移転しました。牛舎と住宅は解体して木材を馬車で運び、サイロの石材は石狩川を船で運んだといいます。移転にあたり牛舎、住宅、製酪室、れんが造サイロなどが新築され、これが現存施設にあたります。1992(平成4)年町村農場は篠津へ移転。江別市が建物を含む敷地を取得し、補修・改修工事を経て、「旧町村農場」として一般公開しています。
[建設年]1929(昭和4)年頃[構造]木造平家

【産業遺産/北海道産業考古学会・山田隆大】
◆町村農場及び酪農機械群
(機械)北海道の酪農業は、札幌農学校教師の米国大農法の失敗を受けて、大正時代にデンマークから酪農混合農法時代に導入された。札幌農学校1期生の町村金弥と長男敬貴はアメリカの酪農法を導入し、江別市の現在地に初代の町村農場を建てた。2代目は江別市郊外に新設され、新鮮な牛乳供給とバイオマス最新技術の見学農場として人気がある。初代農場牛舎サイロ住居建物は、酪農機械と町村家展示の博物館となり、北海道酪農史が示される。

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