平成23年(2011)12月3日(土)日本橋~両国~(国道14号・千葉街道)~小岩~(柴又街道)~柴又 8時頃~11時頃
これまで休日は、都心には行きたくなかったのだが、ふとした思いで寅さんの柴又に行ってみたくなった。ただ行っては面白くないので、今回もやはり日本橋から走ることにした。昨日の晩酌はワインだったのか、今日はそれほど二日酔いではない。
両国橋からスカイツリーが見える。両国橋には100もの杭があったそうな。
川を渡ってすぐ回向院というお寺がある。由来は以下のネットの通り。ネズミ小僧の墓もあった。
【回向院】
回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
両国駅、両国国技館、旧安田庭園入口。
芥川龍之介の碑。この地に住んでいた。吉良邸址。
両国でお祭りの準備中。
荒川の橋からスカイツリーが綺麗に見える。
千葉街道から柴又街道に曲る。すぐに古い携帯をおいてある携帯ショップ。
葛飾区に入る。寅さん記念館に入る。今度、すべてを見てみたい。実はほとんど大船で撮影されていたそうな。大船のセットなどもこちらに移されているそう。河川敷の向こうは矢切の渡し。
寅さん記念館の隣にある山本邸。
【山本邸】
山本亭は、合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の自宅でした。山本宅は浅草の小島町一丁目にありましたが、 大正12年の関東大震災で被害を受け、製瓦業者の屋敷跡(当地)に移転して来ました。大正15年から昭和5年まで増改築を重ね山本家四代に亘り、昭和63年まで居住していました。現在は葛飾区が保存していて、平成3年4月から一般に公開されました。山本亭の土蔵は、栄之助氏が屋敷跡を取得した当時からあり、改修は行われていますが築造年は判明しておりません。現存する建物の中で一番古い建造物となります。
【柴又帝釈天】
当山は経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。
当山には昔より日蓮聖人御親刻と言われる帝釈天のご本尊が安置されていたが、江戸中期の一時所在不明となっていた。安永年間に至り当山の第九代亨貞院日敬(こうていいんにちきょう)上人は此の寺のお堂が荒廃したのを歎き、その復興を計ったところ、安永八年(1779)の春、本堂改修中の梁上にこのご本尊を見出し、ついにご本尊の再来の法悦にあったのである。その吉日が庚申(かのえさる)に当たったことが、当山と庚申の結縁の始まりになったのである。
日敬上人は自ら誌した略縁起に「本堂棟上より出現した本尊は長さ二尺五寸、 幅一尺五寸、厚さ五分の板で、形に似ずまことに重く,且つ堅く媒塵に汚れてよく判らなかったが、 水でよく清めたところ、片面は日蓮聖人の真刻、病即消滅本尊の形木、片面は帝釈天王の像である。 これこそ疑うべくもなく、当寺相伝の祈祷本尊である。」と非常な驚きと悦びを述べられている。
帝釈天はインド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の中で最も多くの賛歌を捧げられている軍神・武勇神インドラと呼ばれる重要な神さまです。漢字に音写して釈提桓因(シャクダイカンニン)」と呼ばれて梵天と共に護法の善神とされています。帝釈天は須弥山の頂上の喜見城に住んでいて、忉利天に住む神々の統率者です。しかも正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神さまです。しかし仏陀の教えを聞くまでは、諸天を糾合して阿修羅と戦っていた荒々しい神でもありました。帝釈天は三十三天(忉利天)の主であると同時に四天王を統率し、人間界をも監視します。即ち衆生が殺生、盗み、妄語等を為さないか、父母に孝順であるか、師長を尊敬するか、貧しい人に施しをするかどうか、毎月八日、二三日には人間界に使者を遣わし、一四日、二九日には王子を遣わし、一五日、三〇日には四天王が自ら姿を変えて人間界を巡歴し、衆生の善悪の事を監察するといわれています。従って人々はこれらの日を六斎日といって行いをつつしむのです。
柴又駅の近くに八幡神社があるが、古墳だったそうな。
【柴又八幡神社・柴又八幡神社古墳】
柴又八幡神社では、以前から露呈していた石組や伝世されていた埴輪などから、古墳であると考えられていました。昭和40年の社殿改築に際して、考古学者による調査が行われ、埴輪片、馬具、石室石材の存在が確認されました。現在、社殿下には石室が復元されています。また昭和63年には緊急調査で出土した埴輪片から、南蔵院裏古墳の位置がほぼ確定しています。平成3年には、立石遺跡の緊急調査で、墳丘は全く失われていたものの、周溝内径12m、外径17mの陸橋付の円墳の周溝が検出されています。
近年になって、柴又八幡神社古墳に対して葛飾区による本格的な学術調査が行われるようになりました。平成2年3月には、社殿周囲にいくつか調査坑を開け、周溝や埴輪など、基礎的なデータが得られています(第1次調査)。そして平成10年度以降、さらに詳細なデータを得るべく、葛飾区郷土と天文の博物館によって第2次学術調査が継続されています。
最近の調査では、埴輪が列をなして立った状態で検出され、人物埴輪も発見されました。また周溝も西・北・東・及び南西で検出されています。なお、TK43相当の須恵器も出土しています。TK43は、通常の編年では6世紀後葉に位置付けられています。これは、出土している埴輪や鉄剣などの年代観とも符合します。
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