岩見沢市北村市街地の史跡

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和6年(2024)5月11日(土) 岩見沢市北村温泉~石川啄木歌碑~千間道路・不動明王堂~美唄達布地区~松浦武四郎宿泊地~北村市街 16.1km 2時間14分

 昨日の岩見沢ランでたどり着けなかった旧北村地区を走ることにする。中心街の北村温泉に車を停めて北上する。市街地の中心にはたくさんの石碑があった。

【松浦武四郎翁顕彰碑】
 表目面には上記のとおり刻まれ、「北海道大學教授 高倉新一郎書」と刻まれ、裏面には次のとおり刻まれていた。碑文の下の方にはアイヌの船に乗っている絵が描かれておりめずらしい。「松浦武四郎翁諱は弘字は子重幼名は竹四郎北海と号し別に多気志楼とも号した。文政元年寅二月六日伊勢国一志郡須川村松浦圭介の四男として生れた。筑紫松浦候の裔といわれている。津藩の塾に学んで国学及び漢籍を修めた。弱冠二十一歳の春長崎に赴いて衹性寺の僧侶となったが弘化二年蝦夷地の風雲が急であることを聞き、松前に渡り進んで西蝦夷地の太櫓や瀬田内に行ったが官の禁制厳重で奥地へ入ることができなかったので箱舘に赴き同地の商人加賀屋孫兵衛の手代となり東蝦夷地の沿岸を巡り知床に至った。翌弘化三年漁夫となり庄蔵と称した。更に医師西川従庵の従僕となり樺太勤蕃の一行に加わって西蝦夷を経て樺太に航し晩秋江差に帰った。その後三度松前に渡り国後色丹択捉の諸島を巡歴した。当事世人は翁を遇するに蝦夷気違又は蝦夷雀の綽名を以ってした。燕雀 焉ぞ大鵬の志を知らんやである。安政二年幕府蝦夷地を直轄するに当り翁を御用雇に挙げた。安政三年五月九日石狩定役立石元三郎シノロ乙名エンリシウ外アイヌ八名と共に現中島に宿泊し雨竜越をして西蝦夷を探査した。安政四年四月蝦夷地山川地理取調場所見立新道切開等を命ぜられ石狩川を遡り五月十三日トック乙名セッカウシ外三名と共に再び中島に宿った。江辺草作褥。一夜枕東流。戛々水禽叫。悠々道客愁。と書き残している。此の行で石狩岳(大雪山)に登り石狩川水源を見定め翌潤月五月二十一日三度宿泊して付近を踏査し石狩に帰った。翁の足跡は遍く全道に至らざる所はない。翁は博学多織でその著書二十一類百六十一種に及んでいる。明治二十一年二月十日没した。享年七十三歳。特旨を以って従五位に叙せられた。札幌創建の献策者で道国郡名々付親由縁の地中島に標柱を建て更に開村六十年に当り此処に碑を刻みて永遠にその功績を顕彰する。昭和三十四年九月五日

【金森保太郎翁自治功労碑】
 上記のとおり表面に刻まれ、「緒方竹虎書」と刻まれている。裏面の碑文には次のとおり刻まれていた。「翁は明治十年如月富山県婦員郡四方町に呱々の声を挙げ明治二十六年北辺未開の宝庫開発の勃々たる雄図を抱き鬱蒼たる美唄達布に笈を卸し本村定住の基礎を固めたのは紅顔十六歳の少年時であった。爾来自治の為終始した。
明治三十七年六月一日 大正八年三月三十一日北村戸長役場総代人
大正八年五月 現在に至る北村会議員この間に於て昭和二十一年十一月六日 北村会議長に選任至今日
昭和二十一年十二月二十二日 昭和二十六年七月十九日 北村農業委員会長
昭和二十二年八月十日 昭和二十三年十一月二十九日 北村食糧調整委員会長
昭和二十六年七月二十日 昭和二十九年七月十九日 北村農業委員会委員
翁は生涯の大部分を本村今日の育成の為に投入されたのであって連続五十二年間の自治貢献は全国に於ても稀に見る永年勤続で其の功績も亦偉大である。茲に碑に刻して以て之を頌し後昆に伝えんと然云
昭和二十九年十一月二十三日」

【圃場整備北栄地区竣工記念・和田孝雄氏像】
 表面には上記のとおり刻まれ、下の方には「民社党副委員長衆議院議員 小平忠」と刻まれている。民社党はなつかしかった。横面には「和田孝雄」氏の像が埋め込まれていた。裏面には次のとおり刻まれていた。「泥炭地圃場整備事業は全国で夫々の工法で施工されていたが、昭和四十年道立農業試験場に委嘱して置土方式による工法をあらゆる角度から研究した結果、次の要件を具備すれば可能
であることが判明した
1.泥炭地に於いては切土方式は避けるべきで客入土による硬盤の支持層を増大する事
2.客入量は立地に応じて既成田の田面高第二位に合わせ算定する。
3.均平は代掻き以前に完全に行い代掻き時は避ける。
4.置土により増収効果は上がる。
5.収穫期の土壌硬度は下層三十糎以下は耕起前と変わらないが、表土は排水不良となる可能性が多いので暗渠の設備を併せ行う必要がある。
6.コンバイン利用の場合走行部は軌導型とする。
7.盛土当初は客入土と原土との混合により土壌の物理的性質が変化し易いから施肥管理作業は慎重な配慮が必要
 全国で実施されている置土方式別名北村方式はこの試験により大きな成果をあげている。昭和四十一年度から道栄圃場整備事業北栄地区が事業量一千十三ヘクタール事業費七億六千万円で工事に着工し、昭和四十八年度に於いて面積一千二ヘクタールで事業費十九億二千六百万円で工事を完了した。この間米生産調整で通年施工が実施され工事は急速に進んだ。又全国初めて圃場整備事業による舗装工事が実施され地区内重要道路八千六百五十米が舗装を完了した事は本村に於ける道路整備に大きく貢献している。事業施行に当り二百六戸の受益農家を説得し南空知最初の採択地区として実施に踏切りをつけた和田期成会長の献身的な努力と村当局及び北村農業協同組合の協力に対し深く感謝すると共に此の喜びを永く記念する為にこの碑を建てる。昭和四十八年十月建」

【開拓記念碑】
 上の方に上記のとおり刻まれ、表面のほとんどにびっしりと文字が刻まれていた。「江辺草作褥 一夜枕東流 戛々水禽叫 悠々動客愁是安政四年丁巳五月十三日探検家松浦武四郎石狩川水源調査の途次ビバイヌタッフに宿りし時書き遺したる絶句なり 当時上川アイヌの宿泊地たりしに過ぎず 明治十七年四月雁来の人滝本千代吉を以って入植者の嚆矢とす 其後逐年入植者あり 越えて明治二十六年山梨県人北村雄治団体移住開拓経営をなす村名実に之に職由す 明治三十三年六月十三日岩見沢村より分村独立す 爾来五十閲年戸数一千一百七戸人口七千有余水田一千五百町歩畑二千一百町歩を算するに至る 自然景観一変して文化景観を現出し汪洋たる前途を象徴す 盛なる哉題 北村 石狩長流水拍天 雲涯一抹樽前煙半百歳前榛莽 萬頃農功麗穂鮮」

コメント