恵み野・陸軍大演習碑・島松駅逓碑・クラーク記念碑

旅ラン

平成27年(2015)4月12日(日) 9時頃出発 約20.38km 約2時間45分(8分06秒/km)

  来週は伊達ハーフマラソン、その次は駒ケ岳1周65kmマラソンを控えているため、今週は走り込みをしなければならない。走り込みとまだいったことがない島松の駅逓所跡と、北海道稲作発祥の地を見に行くことに。
 JR札幌駅まで走り、JRの鈍行列車に乗って、恵み野の駅まで。恵み野の駅から36号線を北上する。しばらくすると、島松の自衛隊演習場のところに石の史跡がある。漢文でよくわからないが、内閣総理大臣正三位勲一等廣田弘毅が揮毫、昭和11年仲秋に陸軍の特別大演習をここでやった記念のようだ。

 漢文を転記すると次のとおり。
・・・内閣総理大臣正三位勲一等廣田弘毅篆額
昭和11年仲秋挙行陸軍特別大演習於石狩の大野
天皇陛下畏忘?食之労統監用兵之状十月5日日進
大素干島松原頭親察攻守之?略或具観干城対戦之状勢
聖慮深奥誰?不感激斯日天気晴朗顥氣遍干沃野
錦旗(風に易)祥風?拝
龍馬干輩路黎?悉浴仁風蒼生斎潤慈雨洵是?之感事也頃者闇邑相謀建碑干此聖地以貽栄光後?出於至誠田請記梗?如此
昭和12年6月北海道庁長官 従四位勲二等池田清謹撰
・・・(疲れた) 

しばらく北上し、左折すると、島松沢の市街地へ。ここは普段車で走るとわからないが、ちょっとした集落があり、ここに歴史の遺物が残っている。まずは、馬頭観音が迎えてくれ、そのつぎに駅逓所跡の建物と北海道水田の地発祥地の地碑、クラーク博士の碑もあった。
看板を転載すると次のとおりだが、北海道の札幌の近くにもこんな歴史の地があったなんで感動。

(初代から三代の島松駅逓)
 最初の島松駅逓はこの案内板の一画に、明治6年に建てられた。
 島松駅逓の歴史は、明治5年から6年にかけて開削された札幌本道の歴史に始まる。
 この札幌本道は開拓使が北海道の府を札幌に置くことを定めたことに伴い、北海道の玄関口であった函館と開拓使本庁が置かれた札幌を結ぶわが国で最初の長距離馬車街道であり、この道の完成をまって、明治5年に駅逓の設置が決定された。
 当時の嶋松にはイザり場所漁場町の山田文右衛門の取り扱いによる休憩所があり、宿泊などにも供されていたが、正式なものではなかったため、駅逓の設置が決定すると、山田文右衛門は設置に向け胆振国千年郡出張所に「借地願い」を提出し、明治6年8月3日に割り渡しを受けた後、同年12月7日より駅逓の取り扱いを始めている。
 この借地願いから最初に駅逓が設置されたのは、千年郡嶋松であり、現在の恵庭に位置する。
 駅逓では人馬の継立、宿泊、食料の提供、公用状の逓送などの業務が行われていた。
 このように恵庭と北広島の両市にまたがる島松沢は、両市お開拓以前から勇払と札幌を結ぶ重要な中継地点として北海道の開拓に寄与するとともに、明治4年には中山久蔵が最初に入植、明治6年には対岸の月寒村嶋松に居を写し、幾多の苦労の末に赤毛を育て、寒地での稲作を成功させた土地でもある。
 また、明治10年には日本の教育界に偉大な功績を残したクラーク博士と学生たちが別れを惜しんだ場所でもあることから、この島松沢の歴史と北広島の両市民が共有する文化遺産として後世に受け継いでいきたい。

島松沢の歴史
明治 4年 中山久蔵が米5升と塩1升、さらに手も持てるだけの家具と農具を持って千年郡嶋松に入植。翌々年月寒村嶋松に移る。
明治 6年 6月、札幌本道が完成。当時の開拓次官であった黒田清隆がアメリカ製の4頭曳きの馬車に乗って札幌に入る。
同年 島松駅逓が設置され、12月7日よりより、山田文右衛門が初代取扱人になる。
明治 8年 山口安五郎が2代目取扱人になる。
明治 9年 嶋松に恵庭で初めて郵便局が設置され、山口安五郎が初代郵便局長になる。
明治10年 三月 靍谷新治郎が三代目取扱人になる。
同年 4月16日、クラーク博士が島松沢で学生たちと昼食後に野外実習をし、「青年よ大志を抱け」の別れの言葉を残して、漁村(恵庭市漁町)に立ち寄った後、一路函館の七飯に向かう。
明治14年 明治天皇が本道ご行幸のおり、中山久蔵宅を行在所として昼食をとり小憩する。
明治17年 中山久蔵が正式に四代目駅逓取扱人になる。

(ネットから転載)
 明治4年、札幌郡広島村島松(現・北広島市島松)に入植した久蔵は、道南で栽培されていた地米「赤毛」と「白髭」を持ち帰り、10aの水田を造りました。しかし、やはり川の水は手を切るように冷たく、久蔵は迂回水路を造ったり、風呂を持ち出して湯を沸かし温水を苗代に注いだりして試みました。気温の下がる夜には徹夜をして風呂水を入れ替えたといいます。この結果、明治6年、345kgという高収益を得ます。翌年は不作に終わるものの、諦めることなく血の滲むような努力で水田を拡大し続けました。
 そして同10年の第一回内国博覧会に自作の米を出品。大久保利通内務卿より褒章をもらうという快挙を成し遂げます。その後、何度も品評会に出品し、そのつど表彰を受けるまでになりました。(転載終了)

(クラーク記念碑)
 明治10年4月16日札幌農学校教頭ウイリアムスミスクラークの嶋松駅逓所(中山久蔵宅)における学生及び職員との訣別した地を記念し、昭和25年11月クラーク奨学会(発起人代表宮部金吾)により記念碑が建てられた。 
 クラークは、開拓使の招きにより明治9年6月東京のペンハロー・ホイラーの二教師とともに着任し、7月札幌に赴任。同年9月札幌農学校教頭となり、翌年4月までの8か月間滞在した。訣別に際し「青年よ大志を抱け」の含蓄のある言葉を残したのは現在でも有名であり、塔央のクラーク彫像のしたには、ボーイズビーアンビシャスと、その言葉が彫られている。

 このほか、江別・北広島の秘境に書いてあったのだが、ここには高架下の軟石の柱もあったが、見忘れた。その後、36号線を北上し、福住駅まで走るが、アウトレットパークやコストコなど景色が一変したのに気付いた。

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