令和4年(2022)3月19日(土)
神奈川県横浜市瀬谷区(鎌倉古道北コース)
約6km 瀬谷駅→徳善寺→大門大六天→川口製絲株式會社跡→日枝社→市名木古木ケヤキ→中屋敷地蔵尊→瀬谷銀行跡→善昌寺→北向地蔵尊→牢場坂→海軍道路→瀬谷駅
武相国境コースを経て、瀬谷駅から鎌倉古道北コースを辿ることにする。
https://www.city.yokohama.lg.jp/seya/shokai/bunkazai/sanpo/kita/corse04.html へのリンク
まずは瀬谷図書館の横を通って徳善寺を訪問する。ネット情報によると曹洞宗のお寺で1555年の創建だそうだ。立派な門がある。徳善寺の横の石碑が大門大六天のようである。道をしばらく走り、川口家という豪邸があったが、ここが「川口製絲株式會社跡」であった。
【川口製絲株式會社跡】
瀬谷区(瀬谷村)は、相模原台地上にあり桑の栽培に適した土地で養蚕業が栄えた。明治中期から昭和初期にかけて付近に9の製糸工場が建ち並び、製糸業が盛んだった。中でも明治35年(1902)6月に創業した「本郷館製絲場」は、最も長く稼働し、大正10年に川口製絲株式会社と名前を改めた後、昭和34年(1959)頃まで製造を続け、製絲の品質は国内のトップクラスで、アメリカに輸出していた。昭和6年頃の最盛期には従業員200人を超え、全員が製絲工場内の寄宿舎で生活し、場内は広大で、畑、スポーツ施設、女性従業員がマナーや教養を勉強する学校もあった。製絲工場は地域の人々が働き、地域の原料を使って人を作り、企業が繁盛し、地域の活性化にも寄与していた。
しばらく走ると日枝社に到着。ここの社の由来は分からないが、大きなケヤキの木が生えていた。説明板には樹齢300年以上だという。さらに北上すると、桜が咲いていて、市の指定名木のケヤキがまた生えていた。この曲がりくねった狭い古い道は、鎌倉古道であった。さらにこの辺には、鬱蒼とした林の中の立派な屋敷が多いが、その一つが瀬谷銀行跡であった。銀行といっても通常の農家の屋敷のようである。
【瀬谷銀行跡】
瀬谷村の農家では養蚕が盛んで、明治20年代後半から製絲場が続々に設立された。それを背景に明治40年(1907)6月、瀬谷村の村役を務めていた小島政五郎が中心となり瀬谷銀行を開業した。本店を小島政五郎の自宅に置き、その後30年にわたり地域金融業の中心となり、地域の発展に寄与した。
その後善昌寺や妙光寺を通り、牢場坂を登る。
【牢場坂】
室町時代の宝徳年間(1449~1451)頃、小田原北条早雲の家臣で相州東郡(旧鎌倉郡、高座群)北部の守りに就き、深見城に威勢を張っていた藤原朝臣山田伊賀入道経光の設けた牢場が鎌倉街道沿いに置かれていたため、この地名になった。
坂を登ると都会らしくなく田園風景が広がり、しばらく走ると海軍道路に突き当たった。
【海軍道路】
第二次世界大戦以前、この付近には旧日本海軍(横須賀海軍軍需部、第二海軍航空廠)の火薬庫、補給工場、倉庫等が立地していた。当時は海軍道路沿いに旧日本軍が整備した引き込み線が敷設され、旧日本軍施設と神中鉄道(現相模鉄道)瀬谷駅を結ぶ輸送等の役割を担っていた。その後旧日本海軍施設は「上瀬谷通信施設」として昭和26年3月より米海軍に接収されていた、平成27年6月30日に日本に返還された。これを機に横浜市が整備。
思ったより歴史を感じながら、瀬谷駅に向かう。
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