浦幌町二宮地区の史跡

古墳・ストーンサークル・墓所

令和6年(2024)10月6日(日) 豊頃町二宮構造改善センター~報徳二宮神社往復 3.7km 36分

 本日も吉方の南に赴く。今日は昨年12月に一度訪問した豊頃町の二宮地区を再訪することだ。特に二宮神社には説明板があり、それをレポートできていなかったので、構造改善センターに車を停めて、神社に走ることにする。前回は気が付かなかったが、建物の西側に近代的な碑と古木があった。実はその碑は開拓100年記念碑だった。

豊頃町二宮地区
令和5年(2023)12月9日(土) 豊頃町を走った後、車で二宮地区に向かってみた。開拓の歴史の宝庫だ。途中で「是より西 元興復社開拓二宮農場」の看板があり、二宮神社の山のトンネルを過ぎると二宮構造改善センターのところに石碑等が並んでいた。...

【碑文(開拓記念碑)】
 興復社社長二宮尊親先生は、明治29年祖父尊徳翁の事業を新天地に発展させようとしてこの地を探索され、翌30年15戸の開拓農家とともに入植以来、同社の報徳仕法開拓の指導にあたられた。尊親先生の率いる開拓者は、大木を切り裂く寒さに耐え、幾多の変遷を経て農場の里を築かれた。開墾作業のかたわら、道路橋梁築堤の整備、学校の創設維持に努める等その功績は枚挙に暇がない。星霜100年、先生の報徳の教えと旺盛な開拓精神は、各世代に受け継がれ今日の隆盛をみるに至っている。此処に先人の御労苦を偲び開拓の偉業を顕彰するとともに、この地に生きる喜びをかみしめ、開拓二世紀に向けこの塔を建立する。平成9年7月29日 二宮開拓百年記念事業協賛会

【豊頃町指定文化財はるにれ】
 推定樹齢220年、樹高26m

 次に二宮神社に向かう、トンネルを通り、道道318号線に右折してしばらく走ると、二宮神社の正門があった。説明板もあった。
【報徳二宮神社の説明板】中川郡豊頃町二宮962番地
 (報徳二宮神社の概要)同社は明治30年4月8日に福島県相馬地方からウシシュペツ原野に入植した住民の精神的な拠り所として、同年11月14日に「二宮神社遥拝所」と印した遥拝塔を現在地に建立したのが始まり。明治35年には住民が社殿造営を決議し、酒宴費用の節約や積立等により運営費を捻出した。大正5~9年にかけて住民の労働奉仕により大正9年に社殿が完成。同年、栃木県今市市県社報徳二宮神社より創立が許可され、御分霊を迎えた。また、相馬中村藩の大槻吉直より二宮尊徳翁の紋付羽織が寄附・奉納された。御祭神:二宮尊徳命。
 (二宮獅子舞神楽)(転載略)
  

 神社参拝のあと、構造改善センターに戻る。二宮尊親先生墓にお参りする。裏面には漢文でびっちりと先生の功績が刻まれていた。
【二宮先生古碑陰記】
 明道二宮先生既没之五年北海道十勝豊頃村牛首別報徳会員相謀将建碑表其徳属文干精明謹按状先生夙抱大志以拓荒蕪為巳任明治二十九年航干北海道相地干牛首別拮据十余年刈荊棘墾原野凡二千町歩移民百七十余戸人口七百八十余人通道路架橋梁設学校建神祠起報徳会青年会塔誘導弗懺勤以勤倹貯蓄恤窮困居民安其堵蔚成一村落蓋此挙奉乃祖誠明先生遺訓挺身従事開拓也先生諱尊親通稱金一郎父曰尊行母三宅氏以安政二年十一月十六日生干下野今市天資温良篤厚好学修身嶄然露頭角明治元年従其父應相馬疾聘来中村尋住石神村十年富田髙慶創興復社為其長開福島県下荒蕪一千町歩先生為副社長賛成其業宮内省特賜金若干十四年車駕東巡召見干福島行在所及富田社長没其後鋭意厲精更?張之移興復社干牛首別大成其業大日本農会贈紅白褒章受有功章大正五年朝廷賜藍綬褒章其徳行尋補福島県薫陶院長十一年辞職満干東京四谷十一月十六日以病没享年六十有八緯曰明道院慈徳尊親分遺骨葬干牛首別興復社側嗚呼如先生實可謂全父祖之志者初先生之徒干石神村也精明?聴其談論有所感発今也坐明塗隔悲夫乃?涙敲其硬??
 大正十五年丙寅十一月(以下略)

明道二宮先生が亡くなって五年が経った頃、北海道十勝国豊頃村牛首別の報徳会員たちは、その徳を後世に伝えるため碑を建てようと相談し、文章の作成を私・精明に依頼した。 先生は若い頃から大志を抱き、荒れ地を開拓することを自らの使命としていた。明治二十九年に北海道へ渡り、牛首別の地を選んで十年以上にわたり苦労を重ね、茨を刈り、原野を切り開き、およそ二千町歩を開墾した。さらに百七十余戸の移民を導き、人口七百八十余人の村をつくり、道路を通し橋を架け、学校を建て、神社を創建し、報徳会や青年会を興し、人々を導いて倦むことなく、勤労と倹約を奨励し、困窮者を救い、住民が安心して暮らせる村を形づくった。これはすべて、祖先である二宮誠明先生の遺訓を体して、身を挺して開拓に尽くした結果である。

(AIによる現代語訳)
 先生の名は尊親、通称は金一郎で、父は尊行、母は三宅氏。安政二年十一月十六日に下野国今市に生まれ、性質は温厚で誠実、学問と修身に励み、早くから頭角を現した。明治元年、父に従って相馬へ赴き、中村に招かれ、その後石神村に住んだ。十年ののち、富田髙慶が興した興復社の長となり、福島県下の荒蕪一千町歩の開墾に取り組み、先生は副社長としてこれを支え、宮内省から金一封を賜った。明治十四年、天皇の東巡の際には福島の行在所で召し出され、また富田社長の死後はさらに努力して事業を拡大し、興復社を牛首別に移して大成させた。その功績により大日本農会から紅白褒章と有功章を授与され、大正五年には朝廷から藍綬褒章を賜った。またその徳行を認められ、福島県薫陶院長に任じられたが、十一年に辞職し、東京四谷に移り住み、十一月十六日に病没した。享年六十八。法名は明道院慈徳尊親。遺骨は牛首別の興復社の側に葬られた。ああ、先生こそ父祖の志を完全に継いだ人物であった。私は石神村で先生に教えを受け、その議論を聞いて深く感銘を受けた者であるが、今こうして遠く離れた地で先生のことを思うと、悲しみが込み上げ、涙が止まらない。

【永遠に輝く報徳の郷土】(以前の投稿はきちんとレポートしていなかったので詳細を転載)
 碑文 明治35年7月20日、牛首別報徳会が組織されて以来、年を重ねること80有余年、その間時代の流れとともに、私どもの生活様式は、幾変遷したにも拘わらず、興復社移住民の大部分は、由緒あるこの地に定着し、自来安定した農業経営に専心し現在に至っている。こと茲に至った背景に思を致す時、わが報徳会の堅持する尊い精神が、一貫して吾吾の生活の根底に潜在していた賜と言わなければならない。
 惟うに興復社社長二宮尊親先生が、福島県相馬を母村とし、明治30年以来移住民170余戸をこの地に移し、祖父尊徳先生の報徳に基く、至誠、勤労、分度、推譲の心を柱とした農民の理想郷を確立せんとする熱願の発露によるものであった。而もこのことは開拓当時の問題だけでなく、永遠に持続させるためには、農民の自主性と協調努力によって築き上げなければならない。
 この尊親先生の指導精神が農民の間に浸透し、興復社に代わる自主的な牛首別報徳会が誕生し、その後法人化によって、確固とした組織となり、今日連綿としてうけ継がれている。
 このように尊親先生及び尊親先生の抱く、古くして新しき精神は、歴代の報徳会長を始め役員諸氏の努力と、全会員の協調によって生き続けるのである。
 この誇り高き理想と、子子孫孫に相伝える目的をもって、同志相謀り、この碑を建立する所以である。
 昭和57年7月29日 渡辺利春撰 尊親四男従六位 二宮四郎書
 

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