平成29年(2017)5月2日(火) 家~琴似~新琴似~栄町673番地「富樫農場開墾大作碑」~元町図書館(約12km 1時間37分)
本日は思いもかけずお休みをいただけたので、札幌市内を走ることにする。
本日の目的地は、「札幌歴史散歩」に書かれている東区の富樫農場「開墾大作碑」。
琴似から新琴似、北49条東15丁目まで真っすぐに走る。市街地が切れて、農地の中にその築山はあった。場所的には百合が原公園のほぼ南側である。このようなところにも開拓の歴史を発見できて感動。
【以下、札幌歴史散歩より転載】
所在地:東区栄町673番地。中央バスの北49条東15丁目停留所の右手には、住宅地に囲まれて農地が広がっている。その中ほどに「とがしの山」と呼ぶ木に被われた築山があり、この築山の上に碑が置かれている。この碑は、2代目富樫伝右衛門と小作人らが初代伝右衛門の遺徳をたたえて明治38年に建てたものである。
富樫伝右衛門は、弘化元年(1844年)、今の秋田県に生まれ、生家は地主で造り酒屋であった。明治21年12月、伝右衛門は妻の弟常世此治を連れ、当時列々布と呼ばれていたこの地に入植した。泥炭湿地のため琴似川に向かって排水路を掘り、開墾地の周囲には雨水の流入を防ぐ土盛りを施した。水害などに悩まされながらも、9年後には当時の金で2万円を投入して158ヘクタールの開墾地を開いた。しかし、毎年のように水害に襲われ満足な収穫が得られず40戸余りの小作人が逃散した。
だが、伝右衛門は屈することなく、さらに35,000円余りの大金を投じて開拓を進め、墾田300ヘクタール、小作200戸余り、西は北大第3農場に、南は日の丸農場にに接し、北は琴似川を越え篠路村列々布に及ぶ大農場を作り上げた。小作人はほとんどが富山県出身であった。作物はエン麦を中心に、蕎麦、とうきびなどを作った。南に接する日の丸農場で大正2年頃から造田が始まり、その落水を利用できるようになったので、大正6年頃から数ヘクタールの造田を始めた。伝右衛門は明治35年没、56歳。伝右衛門は不作の年には救済策として小作人に日当を払って築山を築かせたりしたが、それが「とがしの山」である。
他方、東区の菊亭侯爵邸を譲り受け、一時、後継者の富樫鉄弥の住まいとした。菊亭邸は面積404平米ほどの和洋折衷様式の邸宅で、伏籠川の支流を引き込んだ広大な庭園には大きな3つの池があり、その水面に邸宅が美しく映えていたという。
時代は移り、昭和8年当時147.6ヘクタールとなった富樫農場は札幌村で最も早く農地解放が行われることとなった。これは資金繰りが苦しく農場経営がままならなくなってきたことと、農場主の理解によるものであった。昭和9年と11年の2回に分けて、土地の売買代金3,400円を上限に農場が解放され、47人の自作農が誕生した。昭和14年、元小作人らによって「富樫農場解放記念乃碑」が「とがしの山」の中腹に建てられた。また、昭和52年、かつての小作人やその子孫によって、この2つの碑の保存会が作られた。
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