丘珠の戦跡

戦跡・古戦場

札幌市(元町~丘珠~栄町~新琴似~琴似~家)
丘珠飛行場(旧陸軍飛行場)、丘珠神社横空襲跡、軍用拡張道路(新琴似四番通)

 令和3年(2021)1月24日(日)16km 2時間16分

 快晴に誘われてランニングに。今日は戦跡訪問ランニング。地下鉄で元町まで行き、まずは丘珠に走る。最初に訪問するのは丘珠空港である。
 丘珠空港は、陸軍丘珠飛行場が前身である。「写真で見る札幌の戦跡」から要旨を転載すると次のとおり。

【丘珠飛行場】
 昭和17年4月陸軍北部軍司令部経理部は、徴用令により玉ねぎ畑約270ha(丘珠・烈々布、篠路の計68戸)を一方的に強制収容した。翌年の昭和18年4月から1年工期の突貫工事が開始された。整地、滑走路、排水路、施設建設などで働く労働者はタコ部屋に入れられた日本人や強制連行された朝鮮人、苗穂刑務所の囚人も使われた。
 労働者は最盛期で日本人2000人、朝鮮人3000人と言われ、それでも不足で、一般市民、生徒・学生も動員された。昭和19年5月に一応完成し、その後一部工事は続いた。
 従事者等からの証言では事故死の他、逃亡後の拷問による死亡者も出た。「棒頭(ぼうがしら)が馬に乗って畑の中を追跡していた」「泥の伏古川を渡るが、朝鮮人はすぐに捕まり、リンチを受けてアイゴー、アイゴーと泣いていた」「丘珠墓地には朝鮮人が3、4体あったが、墓地が移転してわからない」と言われていた。
 戦後、米軍の命令で道内全ての軍用機の3分の2が丘珠飛行場や北24条の札幌飛行場に集められ、油をかけて焼却された。飛行場の軍用地の3分の2が農家などに返され、現在の飛行場の90ヘクタールになった。

 飛行場敷地が今の3倍あったというからすごい広さだ。
 その次に、丘珠神社の北側を訪問する。ここは丘珠地区の集会所になっているが、戦時中は坂東さんという家があり、ここが米軍に銃撃されたそうだ。以下また「写真で見る札幌の戦跡」から一部転載。

【札幌の空襲】
昭和20年7月15日の早朝、白石村役場方面に米軍戦闘機が現れ、国道12号線に急降下、田畑で作業していた人に機銃掃射を浴びせた。今度は右旋回し、現JR白石駅と豊平橋鉄橋の中間あたりで列車を襲い、機関車を運行不能にし、その後北に向かった。当時、飛行場関係の兵隊は空襲を避けるため、近くの丘珠神社社務所にも分宿していた。
その兵隊は飛行場に行く途中、バリバリっと米機が来たのでとっさに木の蔭に隠れたのだった。流れ弾は屋根を突き抜け、家にいた坂東喜三郎氏(55歳)にあたり死亡、次男の嘉治氏(当時18才)は右手首に重傷を負った。

 丘珠神社に久々にお参りする。開基120年碑には、この地は明治3年7月、山形県より30戸の人々が入植、丘珠玉ねぎの産地として発展したそうだ。また、明治25年、富山県より持ち込まれてきた、丘珠獅子舞は札幌市無形文化財1号に指定され、伝統芸能として舞い続けられているという。

 丘珠神社をあとにし、栄町、麻生を走って、新琴似4番通りに向かう。この道は麻生から石狩花川に向かう幹線通りだ。新琴似神社前の歩道橋で、道を撮影する。こはも戦時中に拡張された軍事拡張道路という戦跡である。

【軍用拡張道路(新琴似四番通)】
 軍用拡張道路には4つの目的がある。①空襲から飛行機を守る隠匿場所まで運ぶ(翼が電柱などにぶつからないようにする)。②いざというとき滑走路にする。③丘珠飛行場と北24条飛行場の間の飛行機移動、④大火防止。
 新琴似4番通りは①と②の目的で、昭和16年の軍用機格納庫建設(石狩市樽川)と並行して丘珠空港通りと同幅に4番通りを拡張した。

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