日光街道8(雀宮~宇都宮宿)

旅ラン

令和5年(2023)3月19日(日)その5:雀宮宿~(8.0km)~宇都宮宿

【全体日程】
スタート7時頃 歩いた距離32.0km 6時間46分
小山宿~(5.1km)~新田宿~(3.2km)~小金井宿~(5.9km)~石橋宿~(6.4km)~雀宮~(8.0km)~宇都宮宿

雀宮宿を過ぎて歩いていく。東京からちょうど100kmのところを過ぎた。しばらく歩くと台新田という地区に到着。台新田集会所の億に台新田神社があった。宇都宮市の市街に入るとスバルの工場があり、国道4号から不動前通に入るとそこが旧街道である。交差点には、不動堂があった。新しい説明板によると、江戸時代のはじめ宇都宮城主本田正純が日光街道と奥州街道を付け替えた際、街道の別れ道に目印とするため設置したそうだ。その近くには宇都宮城下の絵があり、そして江戸時代の三大奇人で、前方後円墳の名付け親である蒲生君平の花街道の説明資料が掲示されている。道路には花が綺麗に植栽されていた。そしてしばらく歩くと蒲生君平の碑と説明板があった。

【蒲生君平の碑】
蒲生君平は、高山彦九郎(たかやまひこくろう)・林子平(はやししへい)とともに「寛政の三奇人」の1人といわれ、1768(明和5)年に旧新石町に生まれた。歴代天皇の御陵を調査した『山陵志(さんりょうし)』を著し修復の必要性を説き、また、朝廷の官職についてまとめた『職官志』の著者として有名である。この碑は、蒲生君平の著書や行いが明治維新に大きな功績があったとして、明治天皇の「君平のひととなりはまことに立派であるから、これを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命により、藩知事戸田忠友が奉行として、宇都宮の入り口であるこの地建てたものである。内容は「この地が蒲生君平の里である」というもの。君平は、1813(文化10)年に46歳で没した。

蒲生君平の碑からしばらく歩くと熱木山不動尊である。ここも古い。

【熱木山不動尊由来】
熱木山不動尊由来 宇都宮市熱木山  持宝院 に鎮座する不動尊 像は、初代下野の国司宇都宮宗円 公天皇の命を受けて奥州の賊徒征伐に遠征、城山村多気山頂に陣を張りし時に戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したという内の一体で、世にも得難い不動明王 で、願い事叶うという伝説がある。 九代公綱公  多気山より城を宇都宮本丸に移転するに当り、第一に守護神である不動明王尊像を宇都宮城内南方畑中に建立。国綱代に至り秀吉に伏せず、以って検地の不正を理由に宇都宮家は秀吉に取潰しとなり、さすが古城を以って日本に誇れる名城も茲に全く断絶するに至った。  而して豊臣家滅亡して徳川家に至り、宇都宮城復元するや、釣天井事件で有名な本多正純 十八万石城主として赴任したるも一年有余にして出羽山形に配流となり、後任に家康の娘婿奥平美作 守の入城するや産業に志し、特に織物を奨励し、大いに声価を上げたという。斯くして宇都宮城 の安泰を祈ってまつられた不動明王であった。康平二年(後冷泉天皇・西暦千五十九年)以来茲に星霜九百余年、そしてその歴史の中には、幾多の災悪が来したことであった。大洪水、大火災、地震、暴風、戦争等々。次から次へと起る災難を突破して漸く今日の安泰と幸福を見る事が出来た次第で、これ皆不動明王の御利益と断ずるものであります。

 宇都宮宿が近づくと寺社が多いが、一向寺のみ撮影する。暫らく歩くと「日光街道と奥州街道の追分」の説明板があり、裁判所のところを右折し、しばらく歩くとおそらく上野本陣跡に到着。上野月極駐車場と書いてあるから、おそらくそうなのだろうと思い宇都宮宿に到着。

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